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火 野 葦 平 の 教 訓

 今次の日支事變が生んだ戰爭文學の

作者として、火野葦平君の功績は偉大

であるが、私は、同君の所謂「兵隊」

ものの作品よりも(尤も「土と兵隊」

の後半に對しては、最大級の讃辭を呈

するものだがー)昭和十四年二月二十

一日から二十三日に亘つて、東京朝日

新聞に掲載された「戰友に愬ふ」に、

同君の魂の全面的躍動が現はれてゐる

やうに思ふ。

       ○

 それは僅かに八千字足らずの、戰場

に於てかかれた一感想文ではあるが、

現に戰地で奮闘中の將兵にとつても、

或は目出度く歸還の幸運に惠まれた人

人にとつても、さうして勿論、吾われ

銃後にある者にとつても、――卽ち、

 我が大日帝國のの國民たるものゝ總て

が敬虔なる感激を以て必讀すべき啓示

的文章である。

 火野君はその中の一節に斯う書いて

ゐる。

兵隊は平和の時代に一市井人であつ
たものが、祖國の必要の前に軍隊に
入つた。市井にはさま/″\の性格を
持つた人間が滿ちて居る。それらの
人間が集つて作られた軍隊が、直に
人格的で模範的である筈がない。美
しい軍隊である筈がない。それらの
樣々の人間が集まつて作られた集團
が、祖國の大いさに目覺め、軍紀の
下に整然と規律づけられ、戰場にあ
つて彈丸の中に鍛錬されて、初めて
立派なる美しい軍隊となつたのであ
る。この事は決して光榮ある日本の
軍隊を誹謗することにはならない。
寧ろ夫故にこそ、日本の軍隊が限り
なく美しく、他國の軍隊に冠絕して
ゐるのである。戰爭は祖國に課せら
れた大いなる使命であるとゝもに、
一個人としての兵隊に與へられた絕
好の鍛錬の道場である。今、長期の
戰場の生活によつて、あらゆる種類
の人間が、一樣に逞しく立派になり
精神の昂揚に導かれた。我々はその
精神を祖國への土産とし、それを有
意義に生かし、あゝ、兵隊が歸つて
來た許りに、こんなにも國内が活氣
づき、日本が更に進展するの機運が
開けた、ありがたいことだ、と云は
れるやうでなければいけないのであ
る。
ところが今、私の最も杞憂する事態
が現れんとして居る。私は今このこ
とを語るのは、兵隊として實に苦痛
に耐へず涙の出る思ひなのである。
戰地にある時にも、私は度々兵隊に
注意したことがある。粗野で亂暴で
あることは如何なる場合でも宜しい
ことではない。兵隊には常に一つの
共通な氣持がある。それは兵隊は生
命を賭してゐる、といふ自覺である
人間として最も尊いもの、大切なも
の、平和の時には凡ゆる手段を講じ
て護り育てゝ來たもの、何物よりも
惜しいものを投げ出し手ゐる。それ
はよい。然し乍ら生命を賭けてゐる
のだから、少々のことはしてもよい
といふ氣持がいけないのである。


 以上はほんの一部分の抜萃に過ぎぬ

ものであるが、これは單に火野君が兵

隊にのみ與へた苦言ではなく、これを

そつくり、事變以來の我國の經濟社會

に當嵌めて、當事者の反省の資料とし

てもいいと、私は思ふものである。

       ○

 我國の經濟機構が事變以來、急角度

の轉回をせざるを得なかつたことは當

然である。卽ち、この事は、兵隊が生

命を投げだしてゐるといふことと同じ

く、大戰爭を遂行し、これに勝たんが

爲めには、あらゆる平和産業を投げ捨

てて、軍需産業に傾注せねばならなか

つたのである。然しそれだからといつ

て、軍需といふ名目さへついて居れば

何をしてもいいといふ氣持が、それら

の産業部門に餘りに蔓り過ぎてはゐな

かつたか。いや現に益々その傾向が著

しくなりつゝあるのではないか。

 例へば、軍部の要求するあらゆる資

材に就いて考へて見る。軍部には戰爭

の規模に從つて、正確な計數に依る資

材の要求量といふものは、略々定めら

れてゐる筈である。然るにこれが軍需

産業部門の手に移ると、一驚の他ない

程の、天文學的尨大なる數字を以て唱

へられる。さうして、何によらず軍部

のためだといふ口實を以て、平和産業

部門への物資の供給の途は閉され勝ち

になるのである。

 一國の經濟は、百億の赤字公債豫算

と、軍需産業だけがあつて、大戰爭の

長期繼續が出來る程、單純なものでな

いことは分りきつてゐる。非常時は非

常時なりに、あらゆる産業が、或る程

度に共存共榮して抱きあつて行くとこ

ろに始めて國民生活の安定がある、國

家に對する國民の信賴が出來て、銃前

銃後一丸となつた戰爭が遂行されるの

である。現在の日本は、この分りきつ

た組立てを餘に無視してゐやしまい

か。

 軍部に直接間接に役立つ仕事をして

ゐるのだから、この位のことは當然だ

といつて、民間の軍需産業部門は眼に

餘る勝手放題なことをしてゐるとの噂

を度たび聽いてゐる。その蔭には幾多

の平和産業部門が、氣息奄々として、

細ぼそと餘命を繼いてゐる。こんな有

樣で果して日本の興亞の大業に邁進出

來るだらうか。

 火野君の云ふ「最も杞憂する事態が

現れんとして居る」のは、忠勇義烈な

る我が將兵の、精神上の問題だけでは

なく、寧ろ、最も啓蒙匝正すべきは、

現在の民間軍需産業部門の心構へであ

る。

        ★王子製紙會社々員

(雑誌「科學知識」昭和十五年三月號
                               VOL.20,NO.3 より)

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        昭和館図書室、国立国会図書館 所蔵


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