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燈 臺 船 (三)

 ひとすぢのかみげほどの運命のゆき

ちがひが、ひとの一生をどれほど

變へるものであるか――チャレス

チャップリンが、あの奇妙な歩る

きかたをしてわれわれの笑ひを放

散させてゐるときにふと思ひうか

べた主題はこれであつた。チャッ

プリンは徒にひとの笑ひをそゝ

るために生きてゐたのではない。

喜劇役者としてあまりに高名な彼

こそは、笑ひの頂上と、哀しみの

頂上とを、誰れよりも深くきはめ

てゐたのである。シナリオ、ライ

ターとしてのチャップリンは、恰

もストリンドベルヒの心理交錯と、

チエホフの寂寞の皮肉とを持つ。

「巴里の女性」に傾注した彼の精神

は、私だちの心の底によどみたま

つてゐる感情の塵芥を、ひとつの

こさずほじくりだしてくれる、精

巧な銀の耳かきにもたとへること

ができる。

 チャップリンの手法は一面甚だ

象徴的である。

 戀ひとジョンと夜をしのびあふ

娘マリィにたいする、彼女の繼父

の憎しみの感情を最も暗示的に語

るために、彼は階段をのぼつてく

る父親の壁にうつる大きな凄いほ

どの影法師をもつて活かしてゐる

 また、マリィがジョンの愛を疑

つて愴惶と巴里行きの列車に誘惑

される心の動きを不自然に思ふや

うなひとが若しあるならば、私は

チャップリンのために蛇足をつけ

加へておきたいのだ。彼はこの物

語りの最も重要な發端であるマリ

ィの心の動揺を、最も必然的に活

いきと表現するために驚嘆に値す

るほどの手段をもつてした。プラ

ツトフォムにひとり淋しく佇むマ

リィの前に、巴里行きの列車がつ

いたことを描寫するために、彼は

決して寫實的な手法を用ひなかつ

た。彼はマリィの心理描寫を、列

車のかげをつかつて完全に活かし

たのである。

 それは鮮かな手法であつた。そ

の夜ジョンをマリィとは巴里に住

むために、親にそむいて家を逃れ

でる。ジョンはマリィをひとり停

車塲に待たせて荷物をとりに彼の

家へ歸る。すると彼の父親が頓死

をするのだ。彼は醫者を迎へる。

ところが一方ひとり停車塲に待ち

わびてゐるマリィは、もどかしさ

にジョンに電話をかける。ジョン

がでる。うろたへてゐる彼の談話

は甚だもうろうとして曖昧である

肝心な父の急死をマリィにつたへ

やうとするところへ迎へた醫者が

やつてくる。マリィとの會話はと

ぎれてしまふ。ジョン一家の狼狽

を知らないマリィは、ジョンの熱

情のない言葉から、彼が巴里へ行

くことを嫌になつたのだらうとひ

とりぎめにきめ、果てはジョンの

愛を疑ひだすのである。その心の

空虚――マリィがひとり佇む田舎

街の淋しい深夜の停車塲に、今巴

里行きの列車がはいつてきた。マ

リィの胸のあたりを靜かに動いて

ゆく灰色な列車のかげ。マリィは

夢に彷徨ふひとのやうにその列車

に吸ひこまれてしまふのだ。

 若しこの塲合チャップリンが列

車そのもののかたちを繪に示した

とすれば、私達は、恐らく「巴里

の女性」の價値を半減したことで

あらう。然し、チャップリンは映

畫に於てたぐひなきエキスパート

である。彼がこの塲面に用ひた氣

の利いた手法は彼の才能の豊かさ

を實に鮮明に示してゐるのである

 ジョンを捨てゝひとり巴里の街

へでたマリィは、いつのまに 、

ピーア・リベルといふ金持ちのド

ンジュアンの身をゆだねて、日夜

を淫樂にこもつて暮らしてゐる。

彼らの苦にがしいまでに贅樂のか

ぎりをつくした都會生活―巴里紳

士の絢爛たる生活の美しき伴奏者

マリィは、もはや昔の純情にみち

たマリィではなかつた。昔、夜更

けのわが家の窓から忍びでて、屋

根づたいにジョンを愛戀の會合を

たのしんだやうなマリィの面影は

今の彼女とはあまりにかけはなれ

たものであつた。

 或る日―不幸な偶然がきた。

 父を失ひ、戀びとにそむかれた

ジョンは、今では老ひたる母とふ

たりで巴里の或る裏街に住んで、

藝術家の生活をおくつてゐる。さ

ういふジョンとマリィとは或る晩

ふたたびあひ見たのである。マリ

ィのまばゆいばかりな、からだか

ら發散する毒草の匂ひは、ジョン

の貧しげな陰鬱な工房アトリエに息ぐるし

いほどたちこめて、それは昔かれ

ら二人の戀に同情を寄せてゐたた

つたひとりのひと―ジョンの母親

の眉をひそめさせたのである。ジ

ョンも、もはや今のマリィから、

かぎなれたありし日の牧歌的な、

なつかしい純朴なかほりをたのし

むことはかなはなかつた。然し乍

ら、ジョンは、マリィを昔とかは

らず戀してゐるのだ。ジョンは思

ひもうけぬこの會合によつて、は

げしく愛戀の翼をはばたかせた。

彼はマリィの肖像を書く約束をし

た。或る日彼はマリィの住家を訪

ねた。彼はなかば諦らめ、なかば

果敢ないのぞみを持ち乍ら、不安

な心をいだいてマリィのしつドア

あけた。その日彼は喪章をつけて

ゐた。

 ―それはどなたの喪章ですの―

マリィはまづさうきくことを忘

 れなかつた。

 ―あ、これですか。僕の、僕の父

 親のです。―

 ―何時? ―

 ―あなたが巴里へおたちになつ

 た晩!―――

 マリィはすべてを知つた。

 ジョンは彼女のへやから男のにほ

ひをかぎださうとした。そして彼

は明かにみた―彼女の化粧簞笥の

曳出から、男のもちひるカラーが

床におちたのをみたのである。彼

もマリィのすべてをさとつた然

し乍ら、彼のマリィにむける熱情

は、その時から、たかぶるばかり

であつた。

(越後タイムス 大正十四年六月七日 
        第七百五號 八面より)


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        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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