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菊池與志夫氏より(私信)(消息十二)

中村葉月樣―ごぶさたばかりし

てゐて申譯ありません。いつも

ご壯健で何よりに思ひます。小

生今夏は眼疾のために、殆んど

寢て暮しました。先日藤田美夜

さんが柏崎に居られる頃、旅心

しきりに動きましたが、今年も

柏崎の海をみる機會を失つて了

ひ殘念です。あなたは近來大へ

んお肥りになつたとのことです

が、バットをおやめになつたの

でせうか。中村葉月的神經衰弱

も退散して了つたのでせうか。

あなたが、ひとの目につくほど

肥つて來られたことは、それだ

け健康を増されたためか、或は

金持ちになられたためかのどち

らかに歸因するのですから、い

づれにしても結構なことと存じ

ます。あなたは藤田さんに、小

生がすつかり柏崎をきらつて了

つたやうに仰有つたとのことで

すが、小生もずゐぶんごぶさた

してゐたものですから、さうお

思ひになるのも御尤もですが、

決して、そんなわけではありま

せん。柏崎を好きなことは人後

に落ちないものですが、あひか

はらずの貧乏ぐらしで、思ひの

ままに旅行などをすることもで

きませんし、別におたよりをす

るほどの變つたこともなく平々

凡々なその日暮らしをつづけて

ゐるわけで、まあひとくちに申

しますと、救ひがたき怠け者に

なつて了つたために、いろいろ

誤解をされてゐるわけです。小

生が得意になつてくだらない寢

言をタイムスに載せていただい

てゐた頃のことを思ひますと、

とてもはづかしくなつて、全く

穴があれば入りたくなります。

その時代は何しろ自分のしてゐ

ることを反省してみるといふこ

とがないのですから、あさまし

いものです。これはどなたにも

さういふ時代があるのでせうが

二三年あとになつて考へると、

自分の頭を石に叩きつけたいほ

どの自己嫌惡を感じますね。で

すから、廿四五位のひとの書い

たものなどはでんで讀む氣にも

なりません。廿五と、廿八とでは

三つしかちがひませんが、人間

の頭としては、すつかり變つて

了ひますね。小生などは漸く廿

九ですが、去年と今年とでは考

が、まるでちがつて來てゐます。

こういふ風にして生きのびて行

つたら、なるほど老人が若いも

のを馬鹿にするのも無理はない

と思ひます。若いうちには、さう

いふわかりきつたことがどうし

ても分らなくて、としよりに反

抗したりかへつて老人を馬鹿に

したりするものですが、どうも

困つたことです。小生などは、た

とひ一日でも二日でも先きに生

れた人には、それだけで尊敬す

る價値があると信じてゐるもの

です。自分乍ら可笑しくなるほ

ど考へが變つて來たものですよ

藤田さんが御話をされたさうで

すが、お蔭で、大へんいい人を世

話していただいて、今秋十一月

にお嫁さんをもらふことに決ま

りました。御安心下さい。新婚

旅行に柏崎へ來いと仰有つてく

ださつたさうですが、仲々そん

なしやれた眞似は出來さうであ

りません。小生のお嫁さんにな

るひとは築地小劇塲の土方與志

氏の御宅で世話になつてゐるひ

とですが、そのために築地の芝

居を始めてみました。帝劇で二

回みましたが、新らしい芝居も

さうわるくないと思ひました。

毎日食つては寢、食つては寢し

てゐるよりは、たまに芝居をみ

たり、本をよんだりするのもわ

るくはないですな。なんだか、だ

らしがなくなつて來ましたから

これ位でやまますが、そのうち、

なにか書くやうなことがありま

したら、お眼にかけるつもりで

すし、折があつたら貴地へも参

りたいものだと考へてゐます。

みなさんごきげんよう。

       (八月廿六日)


(越後タイムス 昭和四年九月八日 
    第九百二十四號 二面より)

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        ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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