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一錢亭雜稿(その四)△同姓名異人△

 「あなたの御姓名と一字

も違はない方が、もう一人

私共の預金者にありまして

どうも紛らはしくて困りま

した。不思議なことがある

ものですなあ」

 私が小金を出入れしてゐ

る或る銀行の行員が、或る

日、私に向つて斯ういふの

である。

 成程、ありさうなことで

ある。いや、あるのが當然

である。――と、私は心の

内で自問自答して肯定して

みたが、何かしら不安な氣

持もするので、

 「無論、住所も、筆蹟も

印鑑も違ふでせうから、萬

一にも間違ひはありますま

いが記帳を混同しないやう

にして下さい。私が入れた

のを先方につけて、先方の

出したのを私の方へつけら

れたりしては、大變なこと

になりますからね」

と、念を押したら、

「それはもう充分注意をし

て居りますから、決して御

迷惑は御掛けしませんが、

只、どうかすると錯覺を起

しさうになつて、妙な氣持

になりますので・・・」

といふ答であつた。

 私の姓の菊池の池は、「

サンズイ」であつて、土偏

ではない。九州の忠臣菊池

武光の遥かに遠い何かに當

るのかも知れぬが、亡父が

よく「池を地と書くなよ。

池の字の菊池はさうざらに

ある姓ではない」と、私に

云ひきかしてゐた點と、私

の先祖が山口縣の下關に近

いところの出であることを

考へ合せると、何か由緒が

あるのかも知れない。

 同じやうなことで、菊池

寛氏がやかましいことを云

つてゐて、地の字を書いて

來た手紙は一切讀まないこ

とにしてゐるとかいふ話を

聞いたことがあるが、私は

それ程迄神經質ではないに

しても、地と書かれては餘

りいい氣持がしないのは眞

實である。

 それに就て憶ひ出すのは

大正二年の昔、私が北海道

函館で小學校を卒業して、

商業學校の入學試験を受け

た時のことである。その結

果が發表されて、合格者の

姓名を書いた貼紙を恐る恐

る見に行くと、尻の方から

近い所に、確かに私の姓名

が書いてあつた。先づこれ

で合格したのだと、子供ら

しく大喜びで家へ歸つて來

ると、もう洋服屋や靴屋や

本屋などが押しかけてゐて

父に賴み込んで註文を決め

て貰はうとしてゐる。

 ところが、ここで一つの

悲劇が起つたのである。私

はあとできいて知つたので

あるが、その時の受驗者の

中に、私の姓名と一字も違

はぬ少年がゐて、彼も合格

發表を見に行つて、後から

見る方が早い位置に自分の

姓名があるので、まさか同

姓名異人がゐるなどとは夢

にも思はぬから、てつきり

合格したものと信じて、早

手廻しにも自分から進んで

洋服、靴、鞄、敎科書など

を一揃買ひ込んで了つた。

ところが、數日後、私も彼

も學校から呼び出しがあつ

て、筆蹟や受験番號などを

調べられた結果、全く幸運

にも、合格したのは私であ

つて、彼ではなかつたこと

が分つたのである。

 私は五年間その學校に學

んだ譯であるが、始めの二

年位迄は、新入生の中に若

しや彼が入つて來やしまい

かと注意してゐたが、到頭

彼はその學校には現はれな

かつた。その後、彼はどう

なつたのであらうか。當時

の彼の胸中を偲んで、今で

も私は彼の爲めに泣くこと

が出來る。

 明治末期から大正初期

頃で、人口も七、八萬人に

過ぎぬ函館のやうな小さな

ところでさへも、同姓名異

人が居つたのだから、今に

都制が敷かれやうといふ、

日本一の東京に、これが相

當多數に居ることは當然で

あるし、又、日本全國を調

べたならば、その數も夥し

いものであらうと思ふ。ひ

とり私の姓名ばかりではな

く、他にもこうした例は無

數にあるものと考へて、私

が興味を持つのは、姓名判

斷のことである。姓名判斷

師は、同姓名者の運命に就

いてどういふ解答をするだ

らうか。他姓名のことは別

にして、差當り、私と同姓

名異人の運不運に就て調べ

てみたら面白いと思ふ。

 變なことを云ふやうでは

あるが、今、私が目錄んで

ゐる、私の隠居仕事は、釣

魚と、讀書と、この同姓名

異人の運命調査の三つであ

る。(昭和十七年十二月十

三日稿)


(「柏崎」會報No.21 
  昭和十八年二月十五日發行 より)


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