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燈 臺 船 (四)

 ジョンはやがてマリィの肖像を

描きあげた。それは今のはなやか

な花粉にまぶれたマリィの像では

なかつた。心もすがたも、昔の日

の彼女であつたのだ。

 ―あなたはなんだつて昔のこと

  などをひつぱりだしたのです

 マリィはこう言ひ乍らもジョン

のために泣いてゐた。そして彼ら

の戀はふたたび燃江あがつたのだ

二人はもういちど結婚の約束を誓

ひあらためた。その日からマリィ

は純情の昔にかへつた。彼女はビ

―ア・リベルに、うつてかはつた冷

淡をもつてむくひた。女―ありふ

れた女のこゝろといふものを餘り

によく知りすぎてゐるリベルは、

マリィのいふ言葉に平氣でとり合

はうともしなかつた。この天才的

ドンジュアンは、別れ話をもちか

ける女を、冷笑しただけである。

 ジョンの母親は、ジョンとマリ

ィとのことを知つて嘆き哀しんだ

そして或る日、あさはかな息子の

戀ごゝろをせめた。ジョンは、たゞ

母親を慰めるためにその塲のがれ

の言葉をつかはなければならなか

つた。

 ―なに、そんなことはみんな嘘

  です。あの女と結婚などゝい

  つたことはたゞ僕の氣まぐれ

  です。―

 運命はジョンと母親とのこの話

聲を、恰度そのときドアのそとに足

をとゞめたマリィの心につたへる

ことを忘れなかつたのである。マ

リィの心はくつがへされた。彼女

は再びジョンを捨てた。ジョンは

かりそめの不用意な自分の言葉が

かもした。思ひもうけぬ哀しさを

とりかへすために必死になつて戀

びとの心にすがつてみた。しかし、

もうそれはおそすぎた。かへらぬ

過失であつたのだ。

 こうして、マリィとリベルはま

た以前の關係にかへつてゐた。リ

ベルは甚だ滿足であつた。得意で

あつた。マリィのうつり氣――そ

してその結末をみぬいた自分の聰

明さに彼は十分滿足であつた。彼

らはこの滿足に醉ひしれて、晩餐

の卓にむかつた。この塲面もまた

甚だすぐれた技法であつた。

 そこへ、心臓の蒼ざめたジョン

がやつてくるのである。「最後にも

ういつぺん會つて話したいことが

あるから・・・」ジョンの心をこめ

てマリィへ書いたこの短い手紙を

マリィは戯れごとのやうにリベル

に見せるのだ。昔の戀びとのいの

ちをこめた哀訴の言葉に對しても

マリィはもう全く無感覺である。

マリィがとめるのをさへぎつて、

惡戯的快感を貪るドンジュアン、

リベルは、ジョンをこのかゞやか

な晩餐の卓にむかへる。そこでジ

ョンは、リベルの手に弄ばれてゐ

る彼の心臓をみるのだ。彼はもは

や戀びとの心をとりかへすすべも

ないことを直覺し、昂奮のあまり

ビーア・リベルにうつてかゝる。し

かし乍ら彼の熱情は誰びとからも

顧みられなかつた。彼は滿目のな

かで冷笑を背にうけただけである

彼の目は炬火のごとく燃江、彼の

怨恨の血は洪水のごとくあふるゝ

とも、今や彼の心はまつ暗である。

彼はすべなき絕望と寂寞と悲哀と

の深淵につきおとされてしまつた

のだ。彼は噴泉のほとりに氷のご

とく立ちどまり、悲痛にかぎりを

こめた一瞥をマリィのはなやかな

食卓に注ぐやいなや、ピストル自

殺をしたのだ。たゞ一發の銃弾は

見事に彼の胸をつらぬき、哀れな

靑年畫家は水けむりをあげて噴泉

の中に首を突きこんで倒れた。

 ジョンの母親はおそい息子の歸

りを待ちわびて、淋しい食卓に燭

臺を點し、息子のために温い夕食

を用意しておいた。この塲面をみ

たときに、私は今までおさへてゐ

た泪がいちどきにあふれでたこと

を告白する。

 やがてそこへジョンの死骸が運

ばれるのである。老ひたるジョン

の母は、哀しみとマリィに對する

憎しみとの思ひにた江かねて、息

子の生命を絕つたピストルをひそ

め、マリィの家を訪ねたが、行き

ちがひに、今は後悔にせめたてら

れ、全く魂をあらひきよめたマ

リィは、ジョンの家を訪れ、死骸

に抱きついて、ひたすらにゆるし

を希つて泣き伏してゐた。母はこ

のマリィの心を憐んで彼女を射つ

心はひるんだ。やがて二人は大き

なまことの愛を感じ、巴里の街を

遠く離れた村に養育院をつくり、

ジョンの亡靈を慰さめるために、

彼女だちの餘生を博愛の生活に捧

げるのである。或る麗かな日であ

つた。かの巴里のドンジュアン、

ビーア・リベルは自働車を驅つて

この村の淋しい路を通りすぎる。

マリィは子供だちと荷馬車の後に

腰かけて、やはりその同じ路を靜

かにゆられて行く。彼らの車はす

りちがつた。しかし、マリィはその

自働車のりベルが乗つてゐること

をどうして知らう。またリベルも

その田舎馬車にマリィが腰かけて

ゐることをどうして知らう。彼ら

は再び遠く離れてしまつた。寂し

い果敢ない人生の行路がそこにの

こされただけである。

 チャップリンの名作「巴里の女

性」はそこで終つてゐる。毛すぢほ

どの運命のゆきちがひが人の一生

をどれほど變へるものであるか―

靜かな村の白い街道を、なんのわ

づらひもなく平和にゆられてゆく

マリィの馬車が、だんだんと遠ざ

かつてゆく、セピアいろの繪が、

き江てしまつたあとまでも、私は

深い感動のためにしばらく立ち上

ることさへ忘れてゐた。私は茫然

として、私の心臓にしみついた幻

のあとをいつまでも追ひかけてゐ

た。それほど「巴里の女性」は銳く

私の心をうつたのである。

            ―未完―



(越後タイムス 大正十四年六月十四日 
         第七百六號 二面より)




#チャップリン #巴里の女性 #越後タイムス #大正時代
#無声映画 #サイレント映画




      ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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