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田舎の母へおくる芝居消息(三)

 ―續稿―

 淀君は例によつて歌右衛門です

御承知のとほりいかにもよちよち

で、坐つてゐるうちはいいのです

が、左吉をひき寄せて口說くとこ

ろなどは、よろよろして氣の毒で

みてゐられません。然し乍ら、な

んと言つても今のところでは、こ

のひとに匹敵するほどの淀君役者

はゐないとも思ひます。中車の秀

吉や羽左衛門の家康や大阪福助の

三成などは、らくらくと巧みです

この種の芝居はみて苦笑をするだ

けで十分です。さうして、さういふ

苦笑は人生に於て貴重なものなの

です。諷刺兒である私は。諷刺劇

である「淀君小田原陣」一幕を、當

夜の芝居の中で最も面白く思つた

のです。さうして私は、ふと武者

小路実篤氏の戯曲を思ひうかべた

のです。例へば母上―この芝居の

組立を、いつかご一緒に帝劇でみ

た、武者小路氏の「秀頼と曾呂利」

一幕や「一日の素盞嗚尊」一幕と比

べてみてください。私の言ふこと

がはつきりとお分りになるだらう

と思ひます。二番目は「心中紙屋

治兵衛」一幕河庄の塲です。これ

は言ふまでもなく鴈治郎の芝居で

す。「心中紙屋治兵衛」は近松半二

の作ですが、これを近松門左衛門

の「心中天網島」に比べると、甚だ

しく拙劣な作品です。いつたいに

近松半二といふ男は、ひとの作品

を改惡する人間で、例へば「夕霧

阿波鳴門」と「傾城阿波鳴門」とを

比べても格段の相違があるます。

四五年前に鴈治郎がきたときには

新富座で「心中天網島」をみせまし

たが、それはいい芝居でした。好

劇家は鴈治郎を賞讃するのに、か

らだのこなしが巧みであるとか、

或は眼がいいとか、することが細

いとかと、いろいろなことを言ふ

やうですが、私は、鴈治郎のわざ

とらしいからだのこなしかたや、

藝の細いのは却つて彼の大きな缺

點ぢやないかと思ふものです。た

だ眼のきはだつて美しいことだけ

は十分認めるものです。かたちも

とりたてていいといふほどではあ

りませんが、あのひとの眼の美し

さには恍惚うつとりとします。一眼千金と

いふ言葉は、恐らく鴈治郎の眼か

らできたものではないかと私は思

ひます。

 この芝居は前にも言ふとほりに

脚本が拙劣ですから、他の役者が

演じたのではみてゐられますまい

が、流石に鴈治郎の紙屋治兵衛と

魁車の小春とは、この芝居で名を

賣つてゐるだけあつて、ひととほ

りは巧いものです。この芝居では

矢張り、「魂ぬけてとぼとぼと‥」

の出がみどころだと思ひます。そ

のほか强ひて面白いところを探せ

ば、治兵衛が格子に兩手をしばら

れてゐるところ位のものです。鴈

治郎の治兵衛は、へんにからだを

ぐにやぐにやさせていい氣になつ

てゐるやうですが、いかにもわざ

とらしくて私には不快です。しか

し、魁車はいい役者です。彼の小

春はすこしも芝居をしないで、そ

れでゐて十分味ひを深く出してゐ

ます。大阪役者のうちでは最もい

い役者だらうと私は思ひます。

 大切は東京の福助と大阪の福助

との「道行旅路花聟」です。清元榮

壽太夫出語りで美しい芝居です。

例のお輕勘平の道行の踊りで、藝

者のお浚ひなどで暫々みたもので

す。

 ――――――――――――

 母上はこのつまらない手紙を、

あの故郷の家の明るい窓で、老眼

鏡をかけてお讀みになることと思

ひます。窓のそとへ眼をうつすと

南國の草原くさはらは、菜の花とげんげの

花との春です。すみれ・たんぽぽ

の春です。麥の靑葉ものびて、黑

い畑の土からは陽炎がゆれのぼつ

てゐる頃でせう。たかく晴れ澄ん

だ空からは雲雀の囀りもきこ江る

やうな氣がします。さらさらと綺

麗な裏山の砂も、岬の松林も、庭

裏の小川の水音も、瀬戶内海の靜

かな海のいろも、山川風物悉く

長閑な南國の四月の氣持にいろど

られて、うとうとと睡氣ねむけを覺江る

ほどの春の風景を樂しまれてゐる

母上のお心に一點の暗いかげをお

とすものは、恐らくこの私のひさ

しぶりの消息だけだらうと思ひま

す。いい嫁でも探しあてたといふ

消息ならばともかく、以上のやう

な不快な、他愛もない息子の手紙

を、ふるさとの日あたりのいい春

の窓にぽつねんと坐つて待ちかね

て居られる母上が、私にはお氣の

毒に思へるのです。(終)

(十五年四月十三日稿)

(越後タイムス 大正十五年五月九日 第七百五十二號 八面より)


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ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

※初代中村鴈治郎(1860~1935)


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