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ヤマト王権と九州地方

邪馬台国は九州にあったと思いますが、もちろんこれは畿内地方に何もなかったということではありません。

畿内には、纏向遺跡という非常に広大な遺跡があり、これはヤマト王権の地として疑いのないところだと思います。そして、このヤマト王権が、今日の皇室に繋がっていくことになるわけです。

ところで、当時のヤマト王権とはどのようなものだったと考えるべきでしょうか。ウィキペディアによると、纏向遺跡から出土した土器の構成は以下の通りになっているといいます。

伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 : 1%
※ウィキペディア「纏向遺跡」より引用

ここからみて分かる通り、半分近くが伊勢や東海系のものとなっており、残り50%がそれ以外の各地となっています。このことから、当時のヤマト王権は、伊勢・東海系勢力を中心として、各地からの勢力が束ねられた連合政権だったのではないかということが推察されます。ただの畿内地方の一大豪族ということではなかったということです。

逆に、この中には東北、四国、九州が入っていません。つまり東北、四国、九州は、当時のヤマト王権の勢力圏外だったということが推察できるわけです。このことは、邪馬台国が九州にあって、ヤマト王権の勢力圏外であったという解釈とも矛盾しません

しかし、このヤマト王権にとって、大きな弱点がありました。それは当時、進んだ文明と文化的発展を遂げていた中国大陸との繋がりです。畿内地方は、九州地方に比べて、中国大陸から離れています。位置関係としては、大陸との交流をするには、九州を経ていくことが、一番楽だったと言えるでしょう。しかし、その九州はヤマト王権の勢力圏外だったのです。

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そう考えると、ヤマト王権にとって、九州が他の勢力に抑えられるというのは、ある意味で首根っこを押さえられるような意味合いがあったかもしれません。とくに青銅器や鉄器など、大陸から伝わってくる進んだモノを取り入れるという意味において、その問題はとくに深刻だったでのではないでしょうか。実際、日本において青銅器や鉄器は、大陸からまず九州北部に伝わってきていることが明らかになっています。

青銅や鉄で農耕具や武器を作れば、その国は高い生産力と戦闘力を手にすることができます。九州で中国・魏から金印を授かるような地位にある邪馬台国は、ヤマト王権にとっては大きな脅威だった可能性があります。邪馬台国に中国から入ってくる文物を止められて、ヤマト王権にそれらが入らないようにされてしまったら、ヤマト王権にとっては厳しい状況になることも考えられます。

古事記や日本書紀によると、ヤマトタケルの熊襲征伐という九州征伐の話があります。この話は、それまでヤマト王権に反抗していた九州への攻略物語と考えてよいと思います(私は個人的には、神功皇后が三韓征伐の際に九州攻略をした可能性が高いのではないかと思っています)。

いずれにせよ、このようにヤマト王権と邪馬台国は、それぞれ畿内、九州にある別々の国であり、どこかの時点でヤマト王権が九州をその征服下に組み入れたと考えるのが自然ではないかと考えられます。

それでは、初代天皇である神武天皇とは何者だったのか?天孫降臨とは何なのか?このあたりのお話については、また機会をあらためてまとめてみたいと思います。

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