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勇ましくない「神武東征」

神武天皇というのは、日本の初代天皇です。この初代・神武天皇は、元々、九州(今の宮崎県)にいた人物です。

例えば、宮崎神宮のHPには、以下の通り記されています。

神武天皇は初代天皇にご即位するまでは、神日本磐余彦天皇、ご幼名を狭野命と申し上げました。天照大御神から五代目の御孫(右系図参照)にあたります。鵜鷀草葺不合尊(鵜戸神宮ご祭神)の第四皇子で、母は玉依姫命(たまよりひめ)と申します。お生まれは宮崎県西諸県郡高原町大字狭野(にしもろかたぐんたかはるちょうおおあざさの)と言われ、この地には狭野神社が鎮座しています。
宮崎神宮HPより引用

神武天皇は、天皇に即位する前、神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)という名前で、宮崎にいたということになっているのです。

そこから日本全国を統治すべく、大和に向かうわけです。これを「神武東征」といいます。同じく宮崎神宮HPには次のように書かれています。

天皇は生まれつきご聡明で武に富みご性格もしっかりした方でしたので、御年十五歳の時皇太子に即(つ)かれ、宮崎で政治(まつりごと)をお取りになりました。しかし、当時は未だ全国統一がなされた時代ではなく、皇威(こうい)が全国に輝くというわけではありませんでした。
そこで天皇は皇威を広めようと仰(おっしゃ)って、四十五歳の時に、都を中央に遷(うつ)すべく、宮崎をご出発になりました
先ず宮崎から陸路北へ進まれ湯の宮でお泊り御湯を召され、次に甘漬(あまつけ)や都農(つのう)では武運長久(ぶうんちょうきゅう)のお祀(まつ)りをされ、更に北に向かい美々津の港(立磐神社)から船出されたと伝えられています。
宮崎神宮HPより引用

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神武天皇は、宮崎を出発し、瀬戸内海を通って大和に向かいます

ところで、この「神武」という名前は、淡海三船という人物がつけたものです。淡海三船は、皇族でもあり、初代「神武」天皇から「神功」皇后までの名前をつけた人物と言われています。「神武」という名前をつけたくらいですから、「神がかった強い武力」をもったような強いイメージがあります。

しかし、この「神武東征」はお世辞にも「強い軍隊」による行軍とは言えないものでした。

上図をみても分かりますが、一度、大阪の方から上陸しようと試みます。しかし、敵将・長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にあい、ここからの大和入りはかないません。結局、神武天皇一行はこのルートを諦め、紀伊半島をぐるりと迂回するようなかたちで、熊野から上陸するのです。

熊野から上陸した後も、神武天皇一行は、連戦連勝とはいかず、だいたい敵軍の裏切り者に助けられるなどしながら、何とか勝利を拾っていくようなかたちで行軍を続けます。

磐余彦尊は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた
(中略)
菟田県を支配する兄猾と弟猾の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦尊を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦尊は道臣命(大伴氏の遠祖)を送ってこれを討たせた
(中略)
磐余彦尊は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。11月7日、八咫烏に遣いさせ兄磯城・弟磯城を呼んだ弟磯城のみが参上し、兄磯城は兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した
(中略)
長髄彦は饒速日命のもっている天神の子のしるしを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。
※ウィキペディア「神武東征」より引用

そして、ようやっとの思いをしながら、橿原宮で即位をするわけです。日本書紀によると、宮崎を出発してから橿原宮で即位するまで、7年の歳月がかかったことになっています。この7年というのが、真実なのかどうかという問題はありますが、いずれにせよ、かなり大変な思いをしながらの大和入りだったと言えるでしょう。

ここでとくに注目したいのは、長髄彦との戦いです。

既にご紹介した通り、大阪上陸ルートで、神武天皇は一度、長髄彦に敗れています。その長髄彦とは、神武東征の最終局面で、再び決戦することになりました。当然、苦戦が予想されるわけです。

しかし、この最終局面で、饒速日命が長髄彦を殺して、神武天皇に勝利をプレゼントするのです。これ、かなり意外な展開です。

何故なら、饒速日命は長髄彦の上司にあたる人物だからです。つまり、長髄彦は饒速日命の地位を守るために、神武天皇と戦っていたわけです。それにもかかわらず、その饒速日命が、自分のために善戦してくれている部下・長髄彦を殺してしまっているのです。

苦戦続きだった神武天皇一行は、最終決戦においても、敵方の総大将・饒速日命の裏切りで勝利を得ているわけです。何となく「神武」という勇ましい名前には似つかない展開ではないでしょうか?

しかし私は、この「神武天皇」という名前にはちゃんと理由があると思っています。また、饒速日命の不可解な裏切り(あるいは譲位?)にも、それ相応の理由があると考えます。

それらはまた機会をあらためて、別記事として取り上げてみます。


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