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「アート思考」と「煎茶」考察⑥ ー「批評"criticism"」と「賛」と「茶席の対話」ー

前回は朝日新聞の記事を紹介し、
「物事を批評・批判できない日本人」
という、外国人から見た『日本人批判』をご紹介しました。

また、同記事から、
「アート思考」×「サイエンス思考」
=「批判的思考法(クリティカルシンキング)」
という、私の考えを書かせていただきました。

そして、茶席での対話は、
「東洋的」批判思考に基づく対話であればあるほど
深みが出てきて面白いのではないか、
ということを今回は考察していこうと思います。


ではまず、そもそも「批判」とか「批評」とはどういったものなのか、
そこから考えていきたいと思います。

こんなエピソードをご紹介します。

2018年の秋だったと思います。
小説家のいしいしんじさんのご講演を聞く機会がありました。
いしいさんが様々なお話をされましたが、中でも、
『みずうみ』というご自身の小説を出版されたときのお話が印象的でした。
以下のエピソードは、私が、「批評」とは何か、をどなたかにお伝えするのに、大変によく使わせていただいているエピソードです。

いしいさんは、プロット等から小説執筆に入られるタイプではなく、
描くべき世界が頭の中に降りてきて、降りてきた世界を描写していかれる、というタイプの作家さんです。

『みずうみ』という小説、
第一章は、月に一度、水があふれ、村は水で覆われ、
水が引くと不思議なものがたくさん水底に残っている、
そんな湖をめぐるお話。

それに続く第二章を書かれる時、
どういうわけか「タクシーの運転手さん」が
ずっと頭の中に降りてきて、ご自分でも第一章と何のかかわりがあるのか、
全く分からなかったようですが、頭の中に降りてくるままに、
タクシーの運転手さんの話を書かれたそうです。

さらに最後の第三章、
ここを執筆されるときに、いしいさんの現実世界の生活の中で、
奥様が流産する、という事態が起こったそうです。
こんな時だから、自分はこの現実を丁寧に書いておかなければならないと、
『みずうみ』の第三章は、「妻の流産」について書かれました。

これが『みずうみ』という小説のプロットです。

出版に際しての記者発表の日、
いしいさんはかなり覚悟されたそうです。
というのも、第一章から第三章まで、まったくつながりが見えないので、
これは評論家の先生たちにかなり「叩かれる」とお思いになったそうです。

ところが、
記者発表の時、こんな質問が飛んできたそうです。
「この小説、第一章の、月に一度満ちてはひいていくこのみずうみは、
奥様の子宮の中を象徴させていらっしゃるのですか、水が引いた後残っている不思議なものは、生命そのものですね?また、第二章は、いしいさんが、奥様の病院にお見舞いに行かれる時、乗っていたタクシーではないですか?
そして第三章へ。・・・。このお話は、まさに第一章から第三章まで、一貫した内容に思ったのですがいかがでしょうか?」
このように言われた方がいらっしゃったそうです。

そのとき、
いしいさんははじめて、
「ああ!自分は最初から最後まで、妻のことを書いていたんだ!」
とお気づきになったそうです。

以上がご紹介したいエピソードです。

何が言いたいかというと、「批評」とはまさに、
こういうことではないかということです。

小説を書いた人自身さえ気づいていない何か、
を、独自の視点から直感的にとらえ、論理的にまとめまとめ上げる、
まさに、「アート思考」×「サイエンス思考」=「クリティカルシンキング」としての「批評」。

しかもこの批評は「けなす」のではなく、
あらたな価値付けとストーリー付けをする、
ポジティブ批評です。

少し飛躍させますが、
このような「批評」を連続させていくのが、
茶席での対話の一つの理想的姿ではないかと考えるわけです。

例えば、
茶席に掛け軸がかかっている、
その掛け軸について、それを描いた人には意図があるかもしれないし、
いしいさんのようにご自身ではわからないままかもしれないけれども、
ある掛け軸に対して、茶会の亭主が何らかの解釈をし、批評を施して茶席に掛ける、
掛けられた掛け軸に対して、お客は亭主の解釈や批評を、亭主との対話の中で引き出し、
さらにそれに対して、お客は批評を加え、他の客たちも其の対話に乗っかっていく。
もちろん、ここでいう批評とは、「けなす」ことではなく、
他人が気づいていない解釈を、ポジティブに生み出すことです。
いしいさんに会見で質問した人のように。

対話とは面白いもので、対話していくうちに、他人の意見に刺激を受けて、
自分自身の批評が、突然出てきたり、以前と変わったりしていきます。

このようなポジティブ批評の積み重ねが、
茶席という時空間で、有機的に、即興的に行われると、
本当に盛り上がりのある茶席になっていくことでしょう。



さて、
これまで、「ポジティブな批評」と書いてきましたが、
ここで、「賛(讃);さん」という言葉をご紹介しようと思います。

「賛」
新選漢和辞典第七版によると、
①たすける・てつだう
②ほめる・ほめたたえる
③明らかにする
④みちびく
⑤すすめる
⑥告げる
⑦同意する
⑧加える
⑨文体の名。ほめことば。伝記や文章の後につけ加える評論。=讃
⑩姓

とあります。
①から⑨までの意味、
中でも、
②ほめる、③明らかにする、⑦同意する、⑧加える、⑨評論
この辺りをご覧いただくと、
先ほどまで申し上げてきた「ポジティブな批評」と似通っていることがお分かりいただけるかと思います。

「賛」とか「讃」と書けば、
東洋絵画をご覧になられる方はお気づきかもしれませんが、
あらゆる東洋絵画の中には、描かれた画とともに、文字(詩や文章)が書かれていることがあり、その詩文のことを「賛(讃)」と言います。

そうです、
「画」に対する「賛(讃)」では、
「画」を『ほめる』言葉が連ねられていたり、
「画」の意味を一層『明らかにする』ことが書かれていたり、
あるいは意味が『付け加えられたり』『評』されたりしているのです。

しかも、
東洋絵画における「賛(讃)」は、
書き加え続けられます。

例えば、
ある絵を明時代の人が描いているとします、
それに対して、描いた本人や本人の友人という同世代の人が賛をして、
さらに時代を越えて、清時代の人が賛を付け加え、
その上さらに時代を越えて、数十年前の人が賛を付け加えている作品、
数多く存在します。

つまり、
「賛」というのは、誰かが書いて終わりなのではなく、
次から次へと書き連ねられていくものなのです。

「賛」を書き連ねていくこと。

このような精神こそが、
豊かな茶席の対話を生んでいくのではないでしょうか。

茶席において、
美術を囲んで対話をするとは、
「賛」を言い連ねること、
と言い換えてもよいかもしれません。



「アート思考」と「煎茶」というテーマで書き始めて、
ようやく一つの着地点に到達したような気がしています。

現代の日本人が見る自分たちの問題点
「サイエンス思考」偏重であること、
「アート思考」がトレーニングされていないこと。
最も、外国人から見たときに、
「サイエンス思考」も弱い、と指摘されているわけですが・・・。

となるともちろん、
「アート思考」×「サイエンス思考」=「クリティカルシンキング」
も弱いことになる。

受験以来培うべき「サイエンス思考」の強化、
かといって「サイエンス思考」偏重にならないようにするために、
「アート思考」をトレーニングしていくこと。

「アート思考」のトレーニングに関しては前々回書かせていただいていますが、今回、書いてみて、煎茶の稽古としては、「アート思考」のトレーニングだけにとどまってはいけないことも見えてきました。

そう、
「アート思考」×「サイエンス思考」=「クリティカルシンキング」
「クリティカルシンキング」は「クリティカルシンキング」でも、とくに茶席で必要なのは「ポジティブな批評思考」、
すなわち、
「賛」を連ねられる思考力と表現力です。

我々が現代の「お稽古」において、
学んでいくことができるのは、
「アート思考」から出発し、「賛」という、東洋藝術・東洋文芸が培ってきた「クリティカルシンキング」である、
このために稽古をしましょう。

これが「アート思考」と「煎茶」の考察のどうやら結論であるようです。

「茶」を「無批判な日本人」の世界から解放し、
同時に、
「(弱い)サイエンス思考偏重」の現代日本人の思考に「アート思考」の要素をトレーニングし、
さらには「東洋的ポジティブクリティカルシンキング」としての、
いわば「『賛』の思考」を発展させていく、
そんな稽古場であらねばならないということですね。


「アート思考」と「煎茶」の話は、
いったいどこに行くのだろうと、
自分でもよくわからないままに書いてきましたが、
ここで一つの終わりとしたいと思います。


「アート思考」を何より鍛えてくれるのは「名品」であり、
「賛」をより深く発想させてくれるのもやはり「名品」だ、
と信じてやまないわけですが、
これからも皆様とともに、
「名品」に出会い、「アート思考」×「サイエンス思考」=「賛の思考」を
学び楽しむ旅がしたいですね。

ぜひ楽しい学びをご一緒しましょう。

長々と行き先のわからない文章だったかと思いますが、
最後までお読みいただきありがとうございました。

次は、これを前提に、
もう一度、新しいスタイルの茶会、
「超茶会」や「オンライン茶会」を書いてみようと思います。

ありがとうございました。


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