嘘をつかずに書く。

新潮と文藝に落ちてると知るより先に投稿しておいてよかった。知ってたら迷いが生じたかもしれない。既に文學界と野性時代に出しており、おだやかな気持ちでいます。

ちなみに新潮の落選作はこちら。公募スクールで教えられたとおり、落ちて当然、という作品ではある。一次で落ちた作品というのはこれまで公開してこなかったのですが、心境の変化があり、残しておくのもいいかな。

新潮に落ちて、びっくりするぐらいショックを受けない自分がいる。同時に、このへんが潮時なのかもな、と。

群像が欲しかったなあ、とずっと思っていました。といっても、最初に通してくれたのが群像だから、という、ずいぶん子どもっぽい理由なのですが。子どもっぽいついでに言えば、神社の絵馬にも、七夕の短冊にも、二年連続で「群像ほしいです」と書いてた。でも、無理だった。今年は出してもいないんだから。

作品を読み直しているうち、ふっと「これは群像ではないな」と思ってしまった。それは等しく「これは純文学ではないな」という直感に等しかった。少なくともこれまでに書いたなかでは渾身の作品だった。それを群像に出せなかった。その瞬間、なにかが割れた気がする。

純文学を好きだったのかなあと今にして思う。純文学を書いていたのは、そっちのほうが予選に通りやすかったからで、努めて受賞作を読むようにしていたけれど、そのどれだけの作品を面白いと思えていたか。「これが面白いんだ」と思い込もうとしていた場面のほうが多い気がします。

本当に書きたいこと、書かなければいけないこと、書けることを選んだとき、純文学が最善の選択肢であったか。本当に読みたいもの、読んで心から面白いと思えるものは、常に純文学であり続けたか。

ここ三年ぐらい、自分の無い心境で有りもしない「純文学」を求めていたような気がする。

来年の春に向けて5作品を書いています。どれも純文学というつもりの作品です。それを書き終えたら、次は何を書くのか、いったん見直そうと思います。何を書くのかは分かりません。エンタメかもしれないし、やっぱり純文学かもしれない。何かは書くと思うし、何を書いたって茨の道でしょう。とにかく、心酔できるものをちゃんと書こうと思いました。

この心境に至ったのは、福島に行ったことが大きいです。群像に出せなかった作品も、福島をテーマに書いたものでした。野性時代に出しましたが、結果のほうは期待していなくて、それよりこれからも福島をテーマにして何を書けるのか頓着しています。しばらくのちにまた福島に行く予定があり、再びちゃんと向き合ってきます。「何を書くのか」を問いかけてくれたのが福島だったと思う。

当たり前だけれど、ちゃんと書こう。一ミリも嘘をつかずに書こう。そうでなければ、少なくとも私にとっては書く意味がないです。「自分にとってだけの面白い」はちゃんとある。それに従えば、書くことは生きることと同じぐらいむずかしくない。

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