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『サキャ格言集』岩波書店 【読書日記】

サキャは1182年チベットに生まれた高僧。
その格言集なので硬い書物と思われるだろうが、結構読みやすい。一項4句の定型文のリズムも気楽に読み進められる。少々引用させていただく。

目次はこんな感じ。〇〇の考察というタイトルが個人的には好感触。

Ⅰ章 賢者についての考察
Ⅱ章 貴人についての考察
Ⅲ章 愚者についての考察
Ⅳ章 賢愚混交についての考察
Ⅴ章 悪行についての考察
Ⅵ章 本性についての考察
Ⅶ章 不相応についての考察
Ⅷ章 行為についての考察
Ⅸ章 教法についての考察
解説


Ⅰ章 賢者についての考察より

功徳の蔵を持った賢者は
貴い格言を集める。
大海は川の蔵であり
川はすべてそこに流れる。

今枝由郎=訳『サキャ格言集』岩波書店2002 以下すべて同

一番最初の格言。いかにも格言。

賢者は論議し質さないかぎり
その深奥さが分からない。
太鼓はばちで叩かなければ (※傍点を太字に変えた)
他の者との違いが分からない。

「太鼓はばちで叩かなければ」
と読んだところで、賢者がばちで叩かれているところを空想し、ちょっと可笑しくなった。読み進めると分かるが、「理」と「喩え」が連続してるので、脳内で可笑しなブレンドがまま起こる。

海が水で満ちることがないように
王の宝庫は財宝で満ちることはない。
欲は楽しみによって満たされることがないように
賢者は格言に飽きることはない。

箴言や格言から始まる考察が知性を深める、こうした学び方は遠い昔の話、という現代だが、ときにはそうした学び方に還ることも大切と思う。
「波止場の哲学者」と呼ばれたエリック・ホッファーは沖仲仕をやりながら思いついた箴言をノートに書きとめ、後日時間をとって考察に費やした。こうした学び方をした人に強靭な知性を感じるのは私だけだろうか。

Ⅱ章 貴人についての考察より

悪王に虐げられたら
法王を思い出す。
熱病に冒された者は
雪解け水しか思わない。

切羽詰まるとすぐに必要なものだけが心に浮かんでくる。
しかしどうしてこれが貴人についての考察なのか、ちょっと分からない。

偉大な人がいるところでは
誰が他の賢者を重んじようか。
空に太陽が昇れば
星は多くても見えなくなる。

賢者がつまり貴人ということか?
貴人の存在に気がつくのは存外難しいということだろうか?

Ⅲ章 愚者についての考察より

愚者もよいことをするが
偶然であって意図してではない
蚕は口から絹糸を巧みに吐き出すが
技量ではない。

愚者としては悔しくもあるが、自虐的に笑っておこう。

ほとんどの悪人は自分の過失を
他人になすりつける。
カラスは汚いものを食べた嘴を
きれいな地面でせっせと拭く。

さすがに嫌な言われようだ。でも笑っておこう。

飲み物食い物のあるところには駆け付けるが
大切な仕事を託されると逃げ去る者は
話したり笑ったりしても
尻尾のない老犬である。

「尻尾のない老犬」というのがどういう意味をなすのか、民俗学的に気になる。

過った学問をした人は
正しい学問をした人を軽蔑する。
ある島では甲状腺腫がないと
不具者だと非難される。

「ある島では甲状腺腫」とはなんなのか?これも民俗学的に解かないと分からない。

よこしまな事をして財を得た者は
貧乏な賢者を馬鹿にする。
年とった猿は人を捕らえて
尻尾がないとあざ笑う。

また尻尾だ。尻尾がなんなのだろう?民俗学的に‥‥

善悪を知らず恩を知らず
素晴らしい話もそうは思わず
目の当たりにしたことをまた聞く
臆病で盲従する、これらは愚者のしるしである。

人は「目の当たりにした」ことでも誰かに聞かないと判断出来ないことがある。自立した人間になりたいものだ。

Ⅳ章 賢愚混交についての考察より

立派な人は怒っても、謝れば静まるが
劣った人は謝っても、ますますかたくなになる。
金銀は硬くても溶かせるが
犬の糞は溶かせば悪臭がただよう。

まさにクソミソ。こういう皮肉とユーモアがこの格言集の面白さだと思う。整体を創始した野口晴哉氏にも通じる皮肉とユーモアだ。

ある人のためになることでも
他の人には害になる。
月が出れば睡蓮は
開くけれども蓮は閉じる。

教えること。導くこと。
とても美しい格言。風情がある。

Ⅴ章 悪行についての考察より

愚者は業(ごう)の結果を
自分の努力で得たものと思う。
老犬は上顎からの血を
骨髄と思って噛む。

この老犬を空想してしまう。ちょっと生理的嫌悪感が湧き上がる。
骨髄に栄養価を感じるのは家畜や狩猟が身近な時代だからだろう。

Ⅵ章 本性についての考察より

内で少し余裕ができると
外で威張った態度を取る。
水で満たされると
雲はたなびき雷鳴する。

水⇒雲⇒雷鳴
これが負の意味合いに向かっているという意外性。
このテンポに私はついていけなかったが、もう一度読み直したら追いついた。

最初から敵か味方かは
定かではない。
食べ物も消化できなければ毒であり
毒も分かっていれば薬となる。

毒と薬が紙一重であるのは、この時代の平均的な感性であったのだろうか。現代では別物となったが、日本も半世紀くらいさかのぼると紙一重ではなかろうか。

Ⅶ章 不相応についての考察より

悪人をいくら頼っても
身内にはならない。
水はいくら沸かしても
燃えることはない。

たしかに水は炎にはならない。ここ面白いと思うのは少数派だろうか。

理由あって怒るのは
少し分かれば鎮められる。
原因なしに怒るのは
誰が鎮められようか。

そんなふうに怒る人がいるし、そんなふうに怒ってしまったことがある。気をつけよう。

Ⅷ章 行為についての考察より

害をなす敵でも
方便で友となる。
毒は身体を害するが
調合すれば薬となる。

これも毒と薬の喩えだ。

相手の痛いところを突く言葉は
敵に対しても言ってはならない。
やまびこのように
瞬く間にはね返って来る。

昨今は「ブーメラン」と言うらしい。
いやそれだとちょっと軽いかな。もう少し重く受け止めておく。
敵と思った途端に痛いところを突こうとする愚かさか。

Ⅸ章 教法についての考察より

大海の苦しみの器となる
この身体は敵のようなものである。
知恵のある人が働かせれば
それが福徳のよりどころとなる。

身体を苦しみの器にしてしまうか、福徳の器にしていくのか。
整体の目指すところと同じであろう。

解説より

サキャ・パンディタは称号、「サキャの大学者」の意。1182年チベットのサキャで生まれた。
13世紀前半。モンゴルの台頭があり、チベットにもその鉾先が向けられた。この危機に対し、チベットを代表してサキャ・パンディタがモンゴルに派遣された。1244年、すでに63歳にしてサキャはモンゴルへ旅立った。以後1251年に亡くなるまで、モンゴルの宮廷でチベットの保護につとめた。

原文は七音節の句を基本単位として四句で構成。
チベット語の韻文のもっとも古典的な形式で書かれている。


サキャの政治家としての生き様にも思いを馳せながら読むと、また深い含蓄を感じられる。個人的には野口晴哉とエリック・ホッファーを思わされる格言集だった。

岩波文庫では初めてのチベット文学とのこと。訳者 今枝由郎氏に感謝。
図書館で借りた本には、2002年1刷、2009年4刷とある。結構読まれているようだ。

今枝由郎=訳『サキャ格言集』岩波書店



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