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ハイウェイバスの進路

2013年5月25日
J1リーグ 第3節
鹿島アントラーズ 3-2 FC東京

https://www.fctokyo.co.jp/game/2013052507

 短編小説/17746文字


 敦之は激しい怒りに身を震わせながら、スタジアムを後にすると、高速バス乗り場へと急いだ。

 煩わしい人混みが、更に彼を苛立たせる。こんな場所にはもう1秒だっていたくない。スタジアムからはまだ、ホームチームが勝利を祝う歌声が響いていて、敦之は思わず目を閉じた。そんな風にして歩いていれば、当然の事ながら誰かと肩がぶつかる。目を開ける前に、敦之はぶつかったのが相手サポーターでないことを祈った。もしそうであったら、なにかとんでもないことをしてしまいそうで恐ろしかった。

 目を開けると、ぶつかった相手は青と赤のユニフォームを纏った中年男性だった。彼の目にあったのは敦之とは違い、怒りではなく悲しみだった。それを見た敦之は、たまらない気持ちになり、ボソッと「すんません」と呟き、急いでその場を離れた。

 敦之も、その男も、結局は同じなのだ。
 それが悲しみの方を向くか、怒りの方向に向くか、それだけの話だった。恐らく、二人だけではなかったはずだ。彼らと同じ色のユニフォームを着て、足早に歩く周囲の人々も、ほとんどはどちらかの感情を抱えているはずだろう。はるばるここまで苦労してやって来て、屈辱を味合わされた人々。

 敦之は「臨時高速バス乗り場」と書かれた案内をたどり、早足で歩いていた。あれこれ考える前に、とっととバスに乗ってしまいたかった。

 やがて、いつの間にかだだっ広い広場に出る。
 スタジアムを後にした時間が早かったからなのか、この辺りに人影はまばらだった。前方には青と白に塗りわけられた、ごく普通の大型バスが扉を開け、一台ポツンと停まっている。

 行きに乗って来たバスと同じだろうか?
 敦之はそれを思い出せなかった。扉の横のLED表示板には「東京駅東口行き/直行」と書かれている。敦之は急に考えることが煩わしくなり、手っ取り早く運転手に聞くことにした。

 バスに近付いくと、扉のステップに片足をかけ、運転手に尋ねる。
「すみません、このバス東京駅行くんすよね?」

 運転手は痩せた、これと言って特徴のない男だった。帽子とネクタイをきっちりと締め、ワイシャツには皺ひとつない。無表情に敦之を見ると、黙って神経質そうに頷いた。敦之は、運転手のその態度に少し腹が立ったが、よく考えてみれば当たり前のことだ。行き先案内には東京駅行き、と書かれているのだから。自分が馬鹿みたいに思え、ため息をひとつつく。

「お金、降りる時っすか?」
そう聞くと、運転手は曖昧に首を振った。それが肯定なのか否定なのかがよくわからない。敦之は完全に腹を立てていたが、もうこれ以上、このやり取りを続けたくない。さっさとバスに乗り込んだ。先に払うのなら、そう言ってくるはずだ。

 バスの車内に入った瞬間、ゾクっと冷気が襲って来るのを感じた。5月にしては、このバスは冷房が効きすぎている。運転手は特に何も言ってこない。敦之は当てつけのつもりで、運転席のすぐ後ろの席にドカっと座った。

 車内には、既に10人程度の客が乗っているようだったが、彼に注意を払う者は誰もいなかった。

 やはり、寒い。
 頭の上の空調吹き出し口を自分に当たらないように動かし、もう一度大きく息をつく。これでとりあえず、座っているだけで東京までは帰れる。あとは、さしあたってすることもなかった。出発を待つだけだ。一瞬、何時に出発するのか運転手に聞こうかとも考えたが、さきほどの態度を思い出してやめた。この上、運転手と喧嘩してしまったら、本当に馬鹿みたいではないか。

 いつもならすぐに携帯をいじりだすところだが、先ほどの佳梨奈とのやり取りを思い出すと、その気にはなれなかった。

 敦之の怒りは、単純に試合結果だけが理由なのではなかった。むしろ、つきあって2年になる彼女、佳梨奈との、電話での会話が原因と言ってもいい。それは試合終了直後のことだった。

 90分間、声を枯らし、跳ね続けた敦之は、試合終了後、思わずへたり込んでしまった。特に疲れた訳ではない。
 16歳、高校1年生の時にゴール裏に通いはじめて、まだ5年。大学生になってはいたが、体力的に厳しいなどということはない。ただ、今日はなぜか、気が抜けたように座り込んでしまった。2点を先制しながらの逆転負け。そんな負け方を目の前で味わうのは、初めてのことだった。

 アウェイ席で呆然と立ち尽くしているその時、佳梨奈から電話がかかって来た。

 彼女との出会いは、味の素スタジアム。ゴールに喜んでハイタッチしたのが、たまたま隣に立っていた佳梨奈だった。幼稚園生のころから父親に連れられてスタジアムに通っていた佳梨奈は、筋金入りのサポーターだった。以来意気投合し、一緒に試合を見るようになり、いつしか付き合い出した。
 今日、ここに来ていないのは友達の結婚式があるからで、それさえなければ当然佳梨奈も一緒にいるはずだった。

「もしもし!」
 あたりの騒音に負けないよう、大声で電話に出た敦之に、佳梨奈が言った。
「敦之、残念だったね」
彼女は、当然のように試合結果を知っていた。電話の向こうからは披露宴の最中らしい、楽し気な声が聞こえていた。だが、急にそう言われても、なんと答えて良いのかがわからない。
「うん」とだけ答える敦之に構わず、佳梨奈が続ける。少し酔っているらしい彼女の声は、敦之を励まそうとしているつもりなのか、明るかった。
「まあ、これで中断だからさ。立て直すよ、きっと」
彼女が言葉を続ける。

「次だよ、次。次は絶対やってくれるって」
 なにげないこの言葉に、敦之は唐突に腹を立てた。たった今、敗戦を告げる笛を聞いたばかりなのだ。ピッチの中では、選手たちが並び、その向こう、ホーム側はお祭り騒ぎだった。そんな状態で、気持ちの切り替えなど出来るわけがない。敦之には、佳梨奈の言葉がデリカシーのないものに聞こえたのだった。

 「次とかさ。気軽に言うなよ。試合見てないのにさあ」
こんなことを彼女に言うのは始めてのことだった。その言葉に、佳梨奈はハッとした様子だった。
 「あ、ごめんごめん。けど、あたし携帯で速報見てたから試合展開は一応…けどごめん」
 まずい状態の相手にまずいことを言ってしまった。そんな雰囲気がありありと伝わってきて、それがまた、敦之の怒りを増幅させる。

 「いや、別にお前が謝る話でもないし。けど、今試合終わったとこで、軽く次とか言われてもちょっと無理だわ」
 八つ当たりだという自覚がないわけでもなかったが、こうなると止まらない。

 「お前は結婚式で楽しいかも知んないけどさ。こっちはそんなお気楽な感じじゃ居らんないわ」
 普段の敦之はこんなに身勝手な人間ではないはずだが、この時はとにかく頭に来ていた。
「これから東京帰んなきゃだからさ。切るわ。またメール送るから。じゃ」一方的にまくし立てると、電話を切った。

 実は常日頃から、敦之は試合後の佳梨奈の態度を疑問に思っていた。
 勝った後は次も勝っちゃうかも、と笑い、負け試合の後は、次、次、と笑う。もちろん引き分けの後も、次は勝つ!と言って笑うのだった。

 そもそも、佳梨奈は、勝負に対する緊張感が足りない。敦之はそう思っていた。勝ったからと言って調子に乗るべきではないし、負けた後は反省しなくてはならない。引き分けなら、なぜ勝てなかったかを反芻し…そこまで考えたところで、ゴウン、というバスのエンジン音で敦之は我に帰った。

 相変わらず車内はガラガラだったが、バスは早くも出発しようとしているようだった。

 ふと、窓から外を見ると、赤いユニフォーム姿の男がバスに向かって走って来る。大きなボストンバッグを肩からかけ、息を切らせならがらドアに辿り着くと、運転手にすみません、すみませんと謝りながら乗り込んで来る。

 敦之は男を横目で観察した。60代ぐらいだろうか。かなり肉付きが良いが、顔色はあまり良くないように見える。薄くなった頭髪を撫で付け、妙に人懐こい笑みを浮かべている。

 男はふうふう言いながら、汗を拭いている。一瞬、敦之の方を向いて不思議そうな顔をする。敦之は男から目をそらしながら、こっち来んな、と思った。当然のことながら、敦之が気にいらなかったのは、男のユニフォームだった。縦縞の入った、真っ赤な背番号40番。

 だが、その願い虚しく、男は敦之のすぐ横、反対側の席に腰を下ろした。
その時、まるでその男を待っていたかのように、バスのドアが閉まった。

 これだけしか乗ってないのにもう出発?まだスタジアム周辺にはたくさんの人々がいるはずなのに。運営はいったいどうなってるんだ?敦之はそう思ったが、バスはそんなことにはお構いなしに走り出した。

 運転手が低くくぐもった声でアナウンスを始める。
「このバスは東京駅東口行き直行の高速バスでございます。スタジアムを出ますと、一般道を走りまして、東関東自動車道、常磐自動車道、首都高速を通り、終点、東京駅東口バスターミナルに向かって参ります。途中休憩はございません。どなた様も…」

 敦之は通り一辺のアナウンスを聞き流しながら窓の外を見た。走り始めたばかりのバスは、すぐに渋滞にはまった。すっかり暗くなったスタジアムの周辺は人と車で溢れている。人混みを歩く青と赤の同胞たちを見下ろしていると、ガラガラのバスに乗っていることが後ろめたく思えて来て仕方ない。
敦之は再び溜め息をついた。

 バスは一向に動かない。
 首を伸ばしてフロントガラス越しに前方を伺っても、見えるのは赤いテールライトの列だけだった。バスの乗客たちは皆一様に押し黙っている。
敦之はただ窓から風景を見るしかなかった。

 次第に眠気が襲って来る。いつしか敦之は窓枠に肘をついたまま、眠りに落ちていった。


 夢の中で、敦之はフリーキッカーを任されていた。
 観客で満員になったスタジアムの、ペナルティエリア外、右45度の位置に敦之は立っていた。本当はフリーキックなど蹴ることなど出来なかった。
それどころか、敦之は観戦専門で、プレイに関しては素人もいいところだったのだ。それなのに、何故かプロの試合に出場させられ、しかもフリーキックを蹴らされようとしている。それを隠しながらボールの側に立っている敦之は、完全に追い込まれていた。

 なにせ、絶妙の位置なのだ。これを決めなければ、次はない。この試合唯一のチャンスを敦之がモノに出来なければ、チームは負ける。サッカーが出来ないことがチームメイトや観客たちにばれてしまう。そうすれば、もうスタジアムに来ることは出来ないだろう。敦之は選手になりたくなどなかった。単なるサポーターとしてチームを応援したかっただけなのに。

 とにかく、このワンチャンスなのだ。次などないのだ。
 目の前には相手選手の真っ赤な壁があり、壁に入った味方が、必死で敦之にアイコンタクトを送って来る。ゴール前では激しい位置争いが繰り広げられている。レフリーが笛を吹く。サポーターたちは両手を前に突き出し、ひらひらさせながら念を送ってくる。

 蹴らなければ。

 そう思うが、足が動かない。足どころか体も動かない。スタジアム中から注目された敦之は、冷や汗をかいていた。


 ブルっと背筋が凍るように震え、敦之は寒さで目を覚ました。
 一瞬自分がどこにいるかがわからない。いつの間にかバスは渋滞を抜け、高速道路らしい道を走っていた。周囲は暗く、どこを走っているのか、まったくわからない。

 どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
 敦之は、無意識にポケットから携帯電話を取り出して、画面を見た。その瞬間、それを見ないようにしていたことを思い出す。溜め息をつくが、着信もメールも来ていない。よく見ると、携帯電話が圏外になっているのに気付いた。

 「このあたりはね、まだ圏外なんですよ」
 出し抜けに声をかけられ、敦之ははっとした。横を見ると、最後に乗って来た、あの赤いユニフォームの男がこっちを見て笑っていた。男の目元にある笑い皺が、顔色のせいかより深く見える。

 敦之のテンションが一気に下がった。相手サポーターと交流したい気分では全然ないのだ。

「ああ、まあそうみたいっすね」
 敦之は歯切れ悪く答えながら目をそらした。だが、そんな敦之の態度にはお構い無しに男は語りかけてくる。

「まったく、こんなことじゃ田舎って言われても仕方ないですよね」そう言って男は笑った。そんなことを言われて、敦之はなんと返事をすれば良いのだろう。
「いや、まあ…」そんなことを呟きながら、再び携帯を睨む。相変わらず圏外ではあったが、とにかくこの会話を終わらせたかった。

 「今日は残念でしたね」
 そう言われて敦之は思わずもう一度男の方を向いてしまった。こんなに単刀直入に、触れて欲しくない試合結果について相手サポーターに話をされることは始めてだった。敦之は一緒にして沸点に達した。

 ありえない。
 なんてデリカシーの無い人間なんだろう、と。怒りを押し殺しながら敦之なんとか答えた。

 「そちら的には最高だったでしょうね」
 男は表情を変えることなく答えた。
 「まあ、今日はそうでしょうね。こないだナビスコでやられたリベンジってとこですよ」
 ナビスコなんて、と言いかけて止める。あの試合には佳梨奈と二人で来ていた。そして、それはとても楽しい思い出だったのだ。

 「私、あの試合は生で観られましてね。スタジアムで。けどまさか4点もやられるなんてね。悔しかったなあ」
 なんなのだ、この会話は。敦之は無表情に答えた。
 「2点先制してひっくり返される方が悔しいですよ。まあ、そちらは楽しくて仕方ないでしょうけど」
できるだけ皮肉に聞こえないように気を付けながら答えた。そんなことが可能なのか、我ながら不思議に思いながら。

「そうだったと思います。いや、実は私ね、今日試合見ていないんですよ」
 敦之は耳を疑った。このバスにユニフォームまで着て乗っているのに試合を見ていないなんて。
 「え?なんでですか?サポーターなんですよね?」
 そう言われた男は前の方を向いて笑った。
 「ええ、そのつもりなんですがね。出来れば試合見たかったんですけど、今日は別の目的で来ていてね。そこまではどうやら許されなかったのです」

 敦之は、男が妙に遠くを見つめていることに気付いた。男にどういった事情があるのかわからなかったが、なんとなくそれ以上は聞きづらい雰囲気があった。しばらくの間、バスがアスファルトの上を走る、ゴーッという音だけが聞こえている。

 ふと、男が再び敦之の方を向いて言った。
「失礼ですが、アウェイに行かれる時はいつもお一人なのですか?」
 正直、面倒くさい話になりそうで嫌だったのだが、特に隠すようなことでもない。敦之は素直に答えた。
「いつもはだいたい彼女と一緒っす。今日は友達の結婚式で来れなくて」
「ああ、なるほど。それなら今日は寂しいですね」
「いや、一人でも全然問題ないっす。むしろこういう試合の後は清々するっつうか」
 それは嘘だ。現に、一緒にいなくたって彼女に腹を立てているのだから。
「こういう試合?」
「こういう、ミスで自滅するような試合っすよ。正直、今日はそちらにやられたと言うよりは自滅ですから」
 敦之の中に悔しさと怒りが蘇ってくる。これが完全な負け惜しみであることを自覚していた。

「そうなのですか。正直、試合を見ていないのでなんとも言えんのですが」
 男は申し訳なさそうに言った。
「彼女と喧嘩でもされたんですか?」
「別にしてないっすよ」
敦之は嘘をついた。
「ただ、負け試合の後はいつも話が合わないので」
そんな嘘を悟っているかのように男は言った。
「彼女さんは大切にした方が良いですよ」
敦之は溜め息をついた。
「彼女は大切にしてますよ。ただね、こんな試合の後、絡みづらいってだけです」
「それがどういうことかわからないですけどね。まあ、でも試合ならまた次があるじゃないですか」

 敦之は心の中で舌打ちをした。結局、この男も佳梨奈と同じことを言っている。
「いやいや、そちらみたいに何度も優勝しているチームならそれで良いかも知れないっすけどね。今日みたいにミスして負けて、次、次って言ってたら強くなれないじゃないっすか」
敦之は言葉を切ると、深呼吸して続けた。
「さっき絡みづらいから一人の方が良いって言ったのは、そういうこともあるんすよね。僕の彼女、負けたりするとすぐ次、次って言うんで。なんか腹立つんすよ、本当」

 男は黙って聞いていたが、しばらく考えた後、ゆっくりと言葉を選びながら語りだした。
「なるほど。でもねえ。私には次があるってのは素晴らしいことだと思えるんですよ」
敦之はうなずきも否定もせずに話を聞いている。
「例えばね。私の知り合いにもいるんですが、フリューゲルスのサポーターたち。彼らは、次、という言葉を使う権利をある時いきなり奪われてしまった」
男は敦之の目を見ながら淡々と続けた。
「我々は同じJリーグ開幕の頃から切磋琢磨した関係ですからね。スタートは横一線だっただけにね。その虚無感は痛いほどわかるんですよ。これはね、悲劇と呼ぶほかない」

 そう言われてしまうと、敦之はなにも言えなくなってしまう。歯切れの悪い言葉を返すしかない。
「うーんまあ、そりゃそうでしょうって感じですけど。極論じゃないっすか。チームが無くなるなんて話は」
「まあ、滅多にある話では無いかも知れないですがね。でも、その事から考えたら幸せだとは思わないですか?次の試合が自然とやって来る、と言うことが」

 ふと、勝ったチームのサポーターに、負けた方がなんでこんなことを言われているのか、敦之は不思議に思った。
「すみません。俺が言いたいのは今日の試合の反省をしないままで次とか言ってちゃダメじゃね?ってだけなんすけど」
声が大きくなりすぎないよう、細心の注意を払いながら言った。

「なるほどね。それなら、こんな話はどうですか?」
男は目をつぶり、大きく息を吸ってから言った。
「チームはそのままでも、自分が試合に行けなくなるってこともあると思うんです」

 敦之は少し冷静に男を観察してみた。この男は妙に憎めないところがある。負け試合の後、相手チームのサポーターとお喋りしながら帰るなどということは始めての体験だった。不思議と、男との会話に引き込まれているような気がした。

 敦之は持論を述べた。
「今、ホームアウェイ全試合に行けている訳じゃないから偉そうなこと言えないっすけどね。もし仕事のせいで試合に全然行けないなら、俺ならそんな仕事やめますね」
 それを聞いている男は、どこか寂しそうに見えた。当然のことながら、敦之も知らない訳ではなかった。彼のように若いうちは遠くのアウェイに行く資金に苦しみ、歳をとって収入が増えれば、今度はそんな暇が無くなってしまう。よくある話なのだ。

 だが、男は首を大きく横に振って言った。
「そういう話ではないのです。可能性の話なのです。どんなに忙しくても、どれだけ遠くに住まなくてはならなくなっても、試合が見られる可能性はあるんです。いつかはね」

 敦之は気づいた。男がすこしだけ興奮していることに。
「次がない、とは、もっと根本から絶望的な状況なんですよ」
 そこまで言うと、まるで話すべきか迷っているかのようにためらいながらこう続けた。
「今の、私のようにね」

 敦之が薄々考えていた疑問を、男は話そうとしているらしかった。相変わらず、バスのタイヤがアスファルトを走る音が聞こえている。窓の外は真っ暗で、街灯ひとつない。敦之の目の前にあるフロントガラスの先には、ヘッドライトが前方を照らしている様子しか見えなかった。繰り返しやってくる破線のテンポで、バスが一定のスピードで走り続けていることだけがわかる。

 車内は相変わらず静かだった。
 ふと、周りの乗客たちはこの会話を聞いているのだろうか、と気になった。敦之は振り返って後ろを見た。

 車内は無機質な蛍光灯の光に照らされている。彼の席から3列後ろには小学校ぐらいの子供とその母親らしき女性が座っていた。キャップを被った子供は窓の外をじっと眺めている。一緒に外を眺めている母親が敦之の視線に気付き、無表情に軽い会釈をした。

 その斜め後ろの席には白髪頭がのぞいている。
 お爺さんなのか、お婆さんなのか、敦之の席からは性別まではわからない。さらに後ろの方にも、もうあと六、七人が座っている様子だったが、シートに隠れていて見えなかった。

 男が話し始める。
「東京駅まではまだ暫くあります。ちょっと長くなるかも知れませんが、話をしましょうか」
 男の語り口は淡々としていたが、妙に人を引き込む力があった。

「私ね、本当は今日、スタジアムに入りたかったんです。中に入って思いっきり応援したかった。もしかしたら入れるんじゃないかなって。でもね、やっぱりそれはダメでした」
そう言って男は悲しそうに首を振った。
「ホーム側、空席ありましたよね?なんかやらかしたとかっすか?」
この男が出入禁止になるなど、敦之にはとても思えなかったが、スタジアムに入れない理由などそれぐらいしか想像がつかない。
「いえいえ、なにも。実は、最初から入れないことはわかっていたんです。それでもね、最後に1回だけあのスタジアムに行きたかったんです」
男は一度言葉を切り、続きを言った。
「お別れを言うためにね」

「お別れ?」
 敦之には状況がよく飲み込めない。
「はい。今日はね、長年通ったスタジアムにおわかれを言うために来たのです。二度と来ることが出来ないと思うと感無量でね。なにせあそこには楽しい思い出がたくさんあって」
男は夢見るような口調で言った。
「どっか遠くに行っちゃうんすか?」敦之は怪訝そうに聞いた。男が大きく頷く。
「遠く…そう、とても遠くにね。あなた、さっき普段は彼女さんと一緒だとおっしゃいましたよね?」
「ええまあ」
「本当はやっぱり喧嘩してるんじゃないですか?」
「…ああまあ、実は。けどなんでわかるんすか?」
敦之は妙に素直な自分自身に驚きながら答えた。
「なんとなく、わかるんです」
男は微笑みながら続けた。
「差し出がましいようですが、出来るだけ早く仲直りした方がいいです。後悔するようなことが起きるといけない」
「後悔は、とりあえず別にしないと思いますけどね」
そう言う敦之に、男が続ける。
「私もね、普段は妻と一緒に来ていたんですよ。最初は息子たちと一緒でしたが、彼らは成人してね。まあ、老後の楽しみといったところです。二人であちこちに行きましたよ。アウェイゲームもね」
 敦之は自分に置き換えて想像しようとしてみるが、うまく行かない。社会人にもなっていない敦之からしてみれば、そんなことは遥か未来のことだった。

「奥さんは今日は、一緒じゃないんすか?」
「今日はね、私一人なんです。妻は家の方が忙しくて」
「家は東京なんすか?」
「いえいえ潮来です」
 これは意外だった。試合後に東京行きのバスに乗っているのだから、当然東京に帰ろうとしているものだと思いこんでいた。
「家は地元の不動産屋でね。爺さんの代から昔なじみのお得意さん相手に細々と。だからまあ、普通のサラリーマンの家庭よりは時間の自由が効いたんですね」
 敦之は黙って聞いていた。
「ここ数年はまあ、本当に幸せでしたよ。サッカーファンになって本当に良かったと。好きなサッカーチームを追いかけて一生付き合える訳ですから。それはあなたも同じだと思いますけどね」
敦之が口を挟んだ。
「そっちほど強ければ、ね」
今度は皮肉ではなく、冗談として言った。なぜか、それが上手く出来た実感があった。

 男は大きく笑うと、また真剣な表情になって言った。
「いえ、これはね、勝ったから幸せだ、という話ではないのです。勝ち負けはあまり関係ないのです。もちろん勝つに越したことはありませんけどね。負けたとしても、それはそれで幸せなのです。何と言いますか、続いて行くことの幸せ、とでも言うのでしょうか。わかりますか?」
「いや、すんません。全然わかんないっす」
敦之は素直に言った。
「そうでしょうね。私だって最近ようやくそう思うようになったのです」
「うーん、良くわかんないんですけど、負けても良いとかサポが思ってちゃ駄目じゃないすか?俺らが勝たせなきゃいけない訳で」
「いや、もちろん。負けていいと思ってる訳ではないんですよ。あなたのおっしゃることは正しい。ただね…」
男は一度言葉を切った。
「こんなことを言うと怒る方もいるかも知れないですが、やっぱりね、これはどこまで行っても娯楽だと思うんすよ」

 これは世代差というものだろうか。敦之はその考え方には同意できない。
「まあ、娯楽って言っちゃえば娯楽かもしんないですけど、俺にとっては既にそういうの超越してますよ」
「いやいや、分かりますよ。そう熱くあるべきなのは」
「戦う選手を支えるのが俺らの役割ですよ。サポーターだって命懸けで…」

 そう言った瞬間、男の表情が変わった。
「命懸け?」男の口調が今までとは明らかに変わって聞こえる。
「命懸けなんて言葉を気軽に使って欲しくないですね」
「いや、俺らはそのくらいの覚悟でやってるってことで…」
敦之の言葉を遮って男が言った。
「それならね。今日の試合、ウチに逆転負けしたのだから、あなた、首でもくくらなきゃおかしいですよ」
 男の口調は静かだったが、その言葉には凄みがある。敦之は反論できなかった。

「いや、すみません。あなたが比喩的に使ってるのは分かるんですけどね。でも命懸けってのはそういう事を言うんです。軽々しく使う言葉じゃない」
 男の口調が少し和いだ。
「応援しているチームが負けたからって、別に命を取られるわけじゃないんです。次に勝つよう応援すればいい」
 敦之は気圧されていることがバレないように言った。
「だけど、ブーイングしてチームが強くなるってことも…」
「それもひとつの方法かも知れませんね。単に腹を立ててブーイングするのは話になりませんが、それがチームにとって必要だと思ったのならそうすればいい。必要がないなら拍手すればいい」

 男は笑った。
「この議論はね、たぶんどこのチームでも成されている議論だと思いますよ。どっちが正しいという話じゃない」
 敦之はさっきまでの自分のことを考えていた。
「要はね、そのどちらにしろ、結局は未来を向いている、ということなんです」
 そう言うと、男は目をくしゃっとさせて笑った。
「私がここ数年感じていたことは、この歳になっても未来に希望が持てる、という幸せに勝るものがあるだろうかってことなんですよ」
 男はその人懐こい表情のまま、話を続けた。
「そしてね、残念ながらそれは奪われて始めてわかることなんです」
 敦之はオウム返しに聞いてしまう。
「奪われた?」

 男は敦之の質問に答える代わりに、話を続けた。
「さっきの話の続きをしましょう。子供たちが一人前になって、あとは夫婦でチームを追いかけて人生を送ろう、と思ってた時に、病気になったのです」
「奥さんがですか?」
 敦之は、この話の行く先がなんとなく見えたような気がして、恐る恐る聞いた。だが、男の答えは違っていた。

「いいえ、私がです」
敦之にはバスのエンジン音が妙に大きく聞こえた。
「病名はあえて言いませんが、まあ、いわゆる余命何ヶ月、という病気です。ほら、ドラマなんかであるでしょ?既に手の施し様がありませんってやつ」
 男の口調は内容の割に軽かった。まるで天気の話でもするように。
「え、全然そういう風に見えないっすけど」
「病気ってやつは不思議でね。それまで元気だったのに、病気だと言われた瞬間、みるみる酷くなる」

 敦之にも身に覚えがあった。
 五年前に亡くなった祖母のことだ。それまで人並み以上に元気だった祖母が、病気を宣告されて以来急に弱ってしまったのだ。そんなはずはないのだが、まるで、病院が祖母を病気にしたかのように思えた。

 「最初は絶望してね。妻と毎日泣いて過ごしましたよ。なんでこんなことにって。ただ、不思議なもので、このままこうしてていいのか、とも思うようになって来るんです。焦りというかね。なにしろタイムリミットははっきりしているだけに」

 敦之はただ、バスの天井を見上げながら黙って男の話を聞いていた。
「財産のことなんかももちろんなのですが、最後に、体が動くうちにしておきたいことってなんだろうって考えたんです。そしたらね、やっぱり、私の希望はスタジアムに行きたいってことだったんですよ」

 敦之はやっとのことで口を開いた。
「つまり、それが、今日だったということですか?」
 その言葉を聞いて、男はにっこりと笑った。

「違います」
 敦之にはもはや男の言いたいことにまったく見当がつかなくなっていた。
「私の人生ラストゲームをね、あなたも観ているんです」
「え?ということは…」
「そう。3月のナビスコカップ。4ー2で負けた試合なんです。あんまりだと思いませんか?人生の最後に4点も取られて負けるなんて」
 男はそう言うと、口元をへの字に曲げてみせたが、目元は笑っていた。敦之は本当になんと言っていいか分からなくなっていた。
「…なんつうか、すんません。」
 謝ることがおかしいのは百も承知だった。実際のところ、その試合中、敦之と佳梨奈は抱きあって喜んでいたのだから。

「謝る必要なんてないんですよ。後ろめたく思う必要なんて全然ありません。勝てば嬉しい。負ければ悔しい。当然のことです。それにね…」
 男は心からに楽しそうに言った。
「4点取られて、私は思ったのです。次は奮起しろよ、リーグで当たったらやり返せよってね。もう二度とスタジアムには来られなのに。これ、余命幾ばくもない人間にしてはかなり前向きじゃないですか?」
「確かに…」
 かすれた声で敦之はやっと答えた。

「そして今日、やっぱりやり返すことができた。あなたには申し訳ないですが」
 そう言われても、もう腹は立たない。
「私はやっぱり幸せ者なんです。だって、試合は次もやって来て、未来に続いて行くのですから。私が死のうが関係なくね」

 死、という言葉を聞いて敦之は反射的に背筋が寒くなった。その様子に気付いたのか、男は弁解するように言った。
「ちょっと話が宗教がかって来ましたね。すみません。ですがそれに近いものがあるのかも知れません」
「すんません、ちょっと深すぎてわかんなくなって来ました」
 そう男に言いながら、敦之は合点がいかない点に気付いた。
「けど、今日はなんで中に入らなかったんすか?せっかくまたスタジアムまで来れたんだから、中入っちゃえば良かったのに。医者に止められたとかっすか?」
 男は首を振った。
「いえ、もう医者も私を止めたりはしません」
そう言うと、男は黙り込んだ。

 敦之が男を見ると、彼は少し困ったような表情をしている。どうやら敦之に伝えたいことがあるようなのだが、それをためらっているかのようだ。
敦之は言葉を待った。ようやく、意を決したように男が語り始めた。

「ねえ。さっき、後ろを向いた時、親子連れが居たのに気付きましたよね」
「え、はい。」
 敦之はシートの背もたれ越しに、もう一度振り返ってみる。先ほどと同じように、帽子を被った男の子とその母親が窓の外を見ている。
男は声を潜めて言った。
「あの二人ね。昨日交通事故にあったんです。父親の運転する車に乗っていてね。対向車が飛び出して来て。残念ながら即死だったようです。」
「お父さんがですか?」
「いえ、あの二人がです」

 敦之は思わず男の顔を見るが、あまりのことになにも言えない。男は考える暇を与えないかのように言葉を続けた。
「その斜め後ろに座っているお婆さん。あの方は4日前の夜、眠ったまま目覚めませんでした。老衰です。まあ、大往生と言っていい」
 男は淡々と話し続ける。
「その隣の女性は病気です。ずいぶん長く入院していたみたいです。その後ろの私と同じ世代の夫婦。彼らも交通事故です。一番後ろの席に座っている若者の軽自動車とぶつかってね」

 敦之はぼんやりと話を聞いていた。まるで現実味がない。
「若者の反対側に座っている中年女性。赤ちゃんを抱いているの、わかりますか?彼女の子供ではありません。赤ちゃんの方は幼児性突然死ってやつです。女性は私と同じ病気ですね。その二つ前の席のお爺さんは…」
 男は、バスの乗客全員の死因を一気に語った。
「そして、私。3月の試合を見に行った後、3ヶ月間入院してたんですが、先週の日曜日、ついに」
敦之は震えが止まらない。

「つまり、このバスはそういうバスなんです」

 その言葉に敦之は凍りついた。恐怖にパニックになりそうになる。大きく深呼吸すると、冷たい空気が肺を満たす。窓の外は真っ暗だった。アスファルトを踏みしめるタイヤの音とエンジン音が遠ざかって聞こえる。

「あなた、このバスに乗った時、おかしいと思いませんでした?試合後のスタジアム発なのにガラガラで、ユニフォーム姿なのは私だけ。」
 その通りだった。言われてみればこのバスはおかしなところだらけだ。震える声で敦之が恐る恐る口を開いた。
「…つまり、俺も?」
 男は首を振って即答する。
「いいえ、あなたは違います。どういう訳か間違えて乗り込んでしまっただけです」
 敦之は少しほっとしたものの、すぐにまったく安心できる状況にないことに思いあたる。
「俺、この後どうなるんすか?」
 そう聞くと、男は困ったような顔をして首を傾げる。
「それが、わからんのですよ。なにしろ私もこのバスに乗るの始めてなもので」

 男は身を乗り出すと、運転手に向かって話しかけた。
「こういう場合ってどうするものなんでしょう?彼、まだ早すぎると思うんです」
 早すぎる。その言葉に、敦之はゾッとした。敦之は無性に佳梨奈に会いたくなった。さっきの電話が最後なんてあんまりじゃないか。携帯を見てみるが、相変わらず圏外のままだ。当然と言えば当然だ。

 どうやら、このバスは現世を走っているわけではないのだ。

「運転中は話し掛けないで下さい」
 運転手はまっすぐに前を向いたまま男に答えた。
「まあ、そんなに固いことは言わないで」
 懇願するように男は言った。

 いい人なんだな、と敦之は思った。

 こんな状況でそんな余裕はないはずだったが、敦之は心からそう思った。生きているうちは見ず知らずの他人、それどころか敵方だった男に、死んでから愛着を感じるなんて。

 運転手がぶっきらぼうに言った。まるで独り言のように。
「こういうことがまったくない訳じゃない。たまにあるんだよ」
 視線は相変わらず真っ直ぐに前を見つめている。
「そういう時はどうするんです?」
 男が運転手に聞いた。
「大丈夫だよ。このまま東京駅まで行ってバスを降りれば」
 運転手の声は低く、聞き取りづらかった。
「ただし、駅に着いても東口には絶対に入っちゃだめだ。入ってしまったら帰って来れない。東京駅東口はあんた方専用の入り口だからな」

 男の表情が明るくなった。
「なるほど、そうか。」
 男は敦之の方を向いて言った。
「良かった。ねえ、我々はこの後、東京駅から専用の列車であっちに向かいます。次の場所へね。そのために全国あちこちからこんなバスが東京駅東口のターミナルに到着するんです。あなたはバスを降りたら、八重洲口でも丸の内口でもなんでもいい。東口以外の入り口から駅に入って、電車に乗って帰ればいい」

 なぜだか恐怖はすっかりなくなっていた。死者に囲まれているというのに不思議だった。だが、それも当然かも知れない。みんな、先週までは生きていたのだから。敦之は男のことがすっかり好きになっていた。

 サポーターはサポーターを騙したりはしないはずだ。

「皆さんは東京駅からどこに行かれるんですか?」
「それは、正直よくわからないんです。これからのことは」
「けど、あなたは色々知ってるじゃないですか。このバスのこととか」
 敦之は食い下がってみる。
「魂が体を離れた瞬間、すべてを知ったんです。思い出した、と言った方がいいかな。私にそれを教えたり、スタジアムには入れてくれなかったりする、なにか大きな力が存在しているとは思うのです。でもそれが何かはわかりません」
 その答えで納得できた訳ではなかったが、これ以上聞いても意味がない気がした。既に敦之の理解できる範囲を越えている。

「実は…」
 と男が頭を掻きながら言った。
「さっき私が語った、次があることそのものが幸せなんだ、という話もね、実はその時に確信したんです」
 そう言って男は笑った。敦之もつられて笑ってしまう。
「妙な話ですが、我々にすら次があるんです。列車に乗って行った先にね。人生においてはね、良いことも悪いことも等価値なんです。起きてみなければわからない。そして、その次に起きることがどちらなのかもわからない。でも、それこそが幸せってやつなんじゃないかってね」
 その言葉の意味を敦之は考えたが、はっきりとはわからなかった。それでも、とりあえずゆっくりと考える時間はありそうだった。なにしろこれでリーグは中断期間に入ってしまうのだ。確実なのは、1ヶ月先に、次の試合がやって来る、ということだけだった。

 ふと、敦之はバスがいつの間にか下道を走っていることに気付いた。窓の外の東京の街はいつもと変わらない。

 運転手がマイクで話し出す。
「長らくのご乗車お疲れ様でした。このバスは間もなく、東京駅東口に到着致します。どなた様もお忘れ物のない様、もう一度身の回りをご確認ください。頭上の網棚に置かれた荷物は危険ですのでバスが止まってから…」

 バスの中が慌ただしくなる。

 敦之が振り向くと、後の乗客たちが動き始めていた。大きく伸びをする者、鞄を下ろそうとする者。いったい彼らはこの後どれぐらいの旅をするのだろうか。

 窓の外に見慣れた建物が見えてくる。
「おお、東京駅の赤レンガ駅舎だ。修復後に見るのは始めてです」
 男は子供のように窓に顔をくっつけて眺めている。赤煉瓦駅舎の前を横切ると、バスは大きく右に曲がった。その先は光に包まれている。目が慣れると、そこは見覚えのない駅の入り口だった。西洋建築の駅舎の前には石造りの巨大なアーチが立ち「東京驛」の文字は、古風な飾り文字で書かれている。

 辺りは人で埋めつくされていた。
 何十台ものバスが停車し、そこから乗客が吐き出されていく。やはり年配の人間が多そうだったが、中には若者や子供もいた。それを見て、敦之は悲しい気持ちになった。

 バスが停車し、プシュっと音を立ててドアが開いた。
 後ろから次々と乗客たちが降りて行く。白髪のお婆さんも見た目よりは足取りが軽く見えた。母親に連れられた野球帽の男の子が敦之の横を通り抜けた。子供と目が合う。敦之は涙を堪えることができなかった。こぼれ落ちる涙を拭いもせず、無理やり笑顔をつくり、せめて手を振ってみせた。男の子は表情を変えず、敦之に手を振り返すと、母親に手を引かれながら人混みの中に紛れ、すぐに姿が見えなくなった。

「さて、それじゃお別れです」
 男が荷物をまとめながら言った。
「最後の旅で、あなたとお話できて楽しかったです」

 敦之は急に堪らない気持ちになった。

 この男とは、もう二度と会わないのだ。一度会って、この先一生会うことのない人はたくさんいるはずだが、別れの時点でそれが分かっていることはない。さっき男が言ったように、可能性の話だ。この男といつかまた合うことは、絶対にない。

 敦之は、なんと言えばいいのかわからずにいた。
「今度、あなたの家に線香を上げに行きますよ」
 ようやく出た言葉は我ながら妙だ、と敦之は思った。
「ははは。それは嬉しいですね」
「あ、そん時、奥さんに伝えたいことがあったら伝えますよ。なんかあります?」
 敦之がそう言うと、男はあっさりと首を振った。
「十分に感謝は伝えましたよ。長く連れ添った家内ですから。それよりも…」
 男はボストンバックの肩紐を調整しながら言った。
「喧嘩中の彼女さんに連絡してあげてください。一緒にサッカーを応援できる連れ合いほど貴重なものはないんですから。私のサポーター仲間に、奥さんが大のサッカー嫌いって男がいますが、それはもう、不幸そのものです」
 そう言うと、男は冗談っぽく笑った。なるほど、と敦之は思った。それは永遠の真理だ。

 男は重そうに立ち上がると、ステップを降りてバスの外に出た。敦之も続いてバスを降りる。地面に降り立ち、バスを振り返ると、運転手がつまらなそうに 「ふん」と鼻を鳴らした。

 駅の入り口は巨大だった。石造りの古風なアーチをくぐり、人々が中へと吸い込まれていく。男が振り返って言った。
「あなたはここまでです。この中に入ってしまったら、我々と行かなくちゃいけなくなる」
敦之は無理に笑顔を作ると、男に言った。
「それじゃ、お元気で」
死者に言うには妙な言葉ではあったが、この場に相応しく思えた。
なにしろ、男にだって続きがあるのだ。
「あなたのチーム、次はきっと勝ちますよ」
男はそう言うと、片目を瞑って続けた。
「でも優勝はウチのものです。なんだかんだ、結局ね」

 その言葉を聞いて、敦之は笑った。いったい、そんなシーズンが何度あっただろうか。やはり、自分は未来に期待するしかなさそうだった。
「よい旅を」
「あなたも」
 そう言い残して、男は背中を向けた。背番号40番の背中が人混みに消えて行くのを、敦之はいつまでも見送っていた。

 やがて、その姿が見えなくなると、敦之は踵を返して歩き始めた。ここは彼のいる場所ではない。光に背を向けて敦之は歩いて行く。ポケットから携帯電話を取り出し出すと、かろうじてアンテナ1本分だけ電波が入っている。建物の角を曲がると、その先には見慣れた赤レンガの駅舎が見えてくる。

 帰って来ることができたのだろうか?見ただけでは敦之にはわからなかった。このまま駅に入って行くことがためらわれる。たまたまその場に居た駅員を捕まえて聞いてみる。

「すみません。東口はどっちですか?」
 そう問われた若い駅員は困惑した顔を浮かべて言った。
「東口?東京駅に東口という改札はありませんよ。東側にあるのは八重洲口ですが、そのことではありませんか?」
敦之は安心して大きく息を吐いた。大丈夫です、と駅員に告げると、ゆっくりと駅舎に入っていく。

 とにかく、次にすることは決まっていた。
 敦之は、手に持った携帯電話をいじり、「佳梨奈携帯」という項目を探し当てた。


2013年5月25日
Jリーグディビジョン1 第13節

鹿島アントラーズ 3-2 FC東京

〈この物語はフィクションです。〉



3月のナビスコカップを4-2で制し、カシマサッカースタジアムで2004年以来の勝利を挙げたFC東京。苦手意識を払拭して臨んだリーグ戦がこの試合でした。折しも公式戦は2連勝中。その勢いのまま、前半で李忠成と渡邉千真のゴールで先制。ゴール裏はお祭り騒ぎでした。しかし、後半、”FC東京が育てた”大迫勇也に1点返されると、オウンゴール、再び大迫に決められ、悪夢の大逆転を許してしまいます。
ぼくの記憶では、「2-0は危ないスコア」の元祖となった試合だと記憶してます。

余談ですが、この後、ドイツに渡った大迫選手を撮影する機会があったのですが、この試合はめっちゃ覚えてる、とおっしゃっておりました。エフトー相性いいすよね、と。悔しい。

このお話は手ひどい逆転負けに荒れて暴言を吐く一部の東京サポに憤慨して書いた記憶があります。発想の元になったのは「鹿島への道中、携帯が圏外になるエリアがある」という事実から。そこで異世界に迷い込んでたら面白いなーと。

ぼくはカシマへはマイカー参戦派なので、高速バスに乗ったことありません。

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