【テニプリ】無我の境地についての補足
はじめに
■注意
このnoteは前回のnoteで書ききれなかった内容を補足説明(+感想)や、勉強したところまでをまとめたものです。お手数ですがまずは前回のnoteをご覧ください。見ていただいた皆様、本当にありがとうございます。励みになります。
このnoteは前回より難易度が上がります。仮説を立てて外れたものを調べたところまで書いています。
なお、ここに記述する内容としては以下を含みます。
仏教(唯識学)
トランスパーソナル心理学(ウィルバー)
スポーツのゾーン状態
早速始めます。さあ、油断せず行こう!
テニプリの無我の境地について再考
■三つの扉について
前回考察した無我の境地の奥に実は三つの扉がある。それぞれ「天衣無縫の極み」「才気煥発の極み」「百錬自得の極み」である。以下はそれらを整理するとともに、今回学習した範囲で説明できるかを試みた軌跡である。
・天衣無縫の極み
まずは乾の分析である。乾いつも分析してくれてありがとう。
何らかの形というのは非常に気になるが、次に南次郎の解説である。ご存じの通り、南次郎は天衣無縫の極みを使用できる。
つまり誰もが持っていて※、初心になって楽しむことが天衣無縫の極みだと考えられる。
そこで、ウィルバーの意識の発達段階(図を参照)の最終段階の非二元段階について着目した。その前段階の「元因的段階」を前回無我の境地の状態ではないかと示したと思う。
ここでももうすでに覚りの段階だと本[1]にも書かれているが、これは般若心経での「色即是空」の状態で、空(≒無我)に到達したものだ。しかし、ここで終わりではない。「空即是色」とあるようにもう一度この世界に戻ってくる必要がある。その状態が「非二元段階」である。
「非二元段階」の説明は以下である。
多様なものが実は宇宙であり、一なる宇宙はそのまま多様な存在であるというところまで見えてきた段階
もうこんなわかりづらい文章じゃ理解に苦しむと思う。私もこれだけではわからない。他にも本に記述があったので端的に表すと「いったん無我を得た自我がもう一度現れる」ことだ。これがテニスを楽しむという初心に戻ったリョーマの「テニスって楽しいじゃん!」に関連するのではと考えた。…が違うかもしれない。念のため記述した。
また、坐禅指導の際に覚ることを「赤ん坊になること」と話している和尚もいるらしい。こちらの方が天衣無縫に近いだろうか。
※誰もが持っているというところにも非常に興味を持った。仏教では私たちはみな仏になる素質があるという考えだからだ。例えば「白隠禅師坐禅和讃」を見てみよう。
つまり「私たち凡夫は元来仏ではあり、自我が融ければ仏だ。それなのに私たちはそれを知らず、遠くに求めてしまっている」
ということである。天衣無縫も皆自分の中にあるとは気が付かなかった。
・才気煥発の極み
才気煥発の極みの不二の分析が下記である。不二君もいつもありがとう。
なるほど、霊性的な未来予知ではなく、一瞬のシミュレートで打球を予測して結果が分かるというものか。いや十分霊性的だが。
こちらは前回も載せた表(再掲)で16番「色の認識」に近いかもしれない。こちらの例では色の認識とあるが、今までの経験による直観で感覚的にシミュレーションして、結果を予測したのだとも考えられる。
霊性的な分析の方も検討したので記す。一応前回載せた論文の霊性的体験はほとんど当てはまりそうなので乱用したくない表5(「ゾーン」を知るための感性的特性)の11番に「透視・透聴・予知」という現象が起こるので、そのたぐいかもしれない。もしくは、先ほど再掲した表の(「ゾーンにおける感性的体験」の具体的事例)の17番にサッカーの監督が「試合前に、すべてをコントロールしていて、勝つということがわかった」とあるので、ある程度予知は可能かもしれない。何球打てばそのゲームが終わるとかは中々難しいと思うが…。
・百錬自得の極み
百錬自得の極みの説明は真田がしてくれた。真田は無我の境地を考察するにあたってとても参考になったよ。ありがとう。真田は無我の境地について研究してくれているのだろうか。
等、似たような説明多数
結論から言う。これは本当にわからなかった。見当もつかない。
同調でも述べた通り、もしかしたら仏教でいう「手放す」ことにより、どこか一点にパワーを集中することができるのかもしれない。が、私は経験もないし、学習範囲ではそういった現象も記述がなかった。
■他選手の技の使用範囲について
無我の境地については(なんとなく)まとまったと思う。しかし、解せないのはその範囲だ。おそらく羽生選手の場合は会場内での心のつながりだったようだが、テニプリ内では会場にいないと思われる選手たちの技も出せていた。
宇宙と繋がるのだから、試合会場内に留まらないとは思う。しかし、今回の学習範囲では記述が見当たらなかった。そのため予想としかならないが、縁を頼りにある程度出せる技が絞られた可能性はある。
つまり同調と同様の理屈である。黄金ペアの絆は凄まじいものなので、あれほど拘束力はないと思うが、もしかしたら知らない選手の技でなく、膨大な宇宙からある程度範囲を絞って繋がっている可能性があると考えた。
もしくは、論文[4]には「自分への声援以外の音は一切聞こえない」などの選択的注意について記述があるため、ゾーン状態時にはある程度絞られると思われる。絞る対象が大きく異なるので、本当にできるかわからないが…。
テニプリ外のこと
■宇宙と集合的無意識について
前回のブログではテニプリとそんなに関係なかったため、宇宙と集合的無意識の関係について記述を避けた。ただ、ゾーン状態と仏教の言う無我の境地の関連性を見出すには必要だと思うためここで記述する。
研究ノート[9]で「ゾーン状態は、国内外で禅における無我の境地や悟りの境地と同様の状態と捉えられることが少なくない」との記述があった。そのため、やはり「ゾーン状態≒無我の境地」が成り立ちそうである。しかしちょっと待ってほしい。
ウィルバーは「心理学や東洋宗教も心について色々主張しているが、そこには対立が生じる。しかしそれは違うスペクトルのものを見ているだけである。心全体を明らかにするうえでは補い合う必要がある」と発言していた[10]。簡単に言うと大きい括りでみれば同様のものであるが、より細かく見れば見れば階層が違うものだろうというものだ。ただ、関連性があることはほぼ間違いない。
上記の説明で「電磁波のスペクトル※1」というものがある。X線も赤外線もγ線も電磁波の一種だが、電磁波の波長(もしくは周波数)が異なる。そのため性質も全然違う。つまり、電磁波というだけで同じものだと議論してはいけないということだ。ただ、波長は違えど元は同じもの。電磁波のすべてを明らかにするには補い合いうるものである。そのため喧嘩せずに丁寧に見てあげないといけない。
ウィルバー曰く集合的無意識より宇宙のほうがもっと深いところにあると示している。 もし、[4]の論文が主張するように、ゾーン状態は集合的無意識と大きく関係があるのであれば、上記より厳密にいうと深さが異なる。そのため、ウィルバーのこの主張を単体だけ真とするのであれば広い意味では少なくとも「"浅い"ゾーン状態※2≠仏教の無我の境地(宇宙と繋がる)」となるだろう。しかし、研究者レベルでも困るくらい様々な説があり、検証もかなり難しいため、わからない。前回のブログは一説としていただけるとありがたい。
※1電磁波スペクトル誰がわかんねん!って感じだったので、可視光(ここでは色のついた光としよう)で説明する。赤い光も青い光その他の色も光だが、波長が違う。それを一緒にして信号機のライトを作ろうとしているようである。事故が発生してしまう。
※2"浅い"ゾーン状態としたのは、深いとやはり宇宙と一体化する可能性があるかもしれないと考えたからだ。集合的無意識より深いところに行く可能性も十分にありうると思う。しかし、これを確かめるためには深いゾーンと仏教の無我の境地の両方を体験して確かめないといけない。無我の境地になれるのは臨済宗でいう老師レベルだろうか。超困難である。
今回文献を参照させていただいた先生方も、両方経験しているとは言い切れないため、結局は「わからない」となってしまう。
■所感
・無我についての探求について
今回、無我の境地を調べるにあたり、最初は仏教から入ったが、かなり行き詰まりを感じた。仏教では唯識学があるとはいえ「無我とかなにか」について探求するために修行するわけでないからである。つまり手段であって目的ではない。
それに比べ、ウィルバーなどのトランスパーソナル心理学はどちらかというと解明することが目的であったので、主に使わせてもらった。
私も無我とは何かを質問したところ大変ありがたい事に臨済宗の和尚に一時間ほど時間を頂いた。本当はそれ自体が何かという話を伺いたかったが、頭で考えることよりも感覚でつかむ方がいいと、8割くらいどうすれば無我になれるかを主に説いていただいた(坐禅の他にはサーフィンや山登りがいいらしい)。勉強になったが残念無念。
おそらく本気で多くの僧侶が探求すれば、ウィルバーなどと同じような結果になったと思う。けれども、何度も言うように、仏教ではそこがメインとなるところではないと思われる。
参考文献
[0]許斐剛(1999-2008) . 『テニスの王子様』全42巻 .集英社
[1]岡野守也(2001) . 『自我と無我―「個と集団」の成熟した関係』 .PHP研究所
[2]横山紘一(2016) . 『唯識の思想』 .講談社
[3] 志岐幸子 『トップパフォーマー達の「ゾーン体験」に見る「感性」の再考』, 人工知能学会誌 28巻6号 (2013), pp.862-871.
[4] 志岐幸子, 福林徹 『いわゆる「ゾーン」における感性的体験に関する一見解』, トランスパーソナル心理学/精神医学Vol.13 No.1 (2013), pp.114-130.
[5]“ゾーンに入る”.フィギュアスケート応援(くまはともだち).2023-09-07. https://ameblo.jp/inakoshi17/entry-12819516328.html, (2023-11-08アクセス)
[6]“無我の境地”.テニプリの宮.2013-1106. https://tenipuri-miya.com/%E7%84%A1%E6%88%91%E3%81%AE%E5%A2%83%E5%9C%B0/, (2023-11-07アクセス)
[7]“天衣無縫の極みについて考える_人生のたどり着くべき場所への到達”.超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ).2019-01-05. https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/01/05/032649, (2023-11-07アクセス)
[8]ケン・ウィルバー(著)加藤洋平(訳),門林奨(訳)『インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』.日本能率協会マネジメントセンター
[9]志岐幸子 『「ゾーン」を見据えた感性教育プログラムの開発―スタンフォード大学における取り組みを参考に―』, (2023),(研究ノートのため論文ではない)
[10]岡野守也(2000)『トランスパーソナル心理学』.青土社
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