世相コントらしきもの①銭湯

ー冬至の日。下町にある古びた銭湯の男湯の洗い場。湯船には大量の柚子が浮かんでいる。なぜか浴室のペンキ絵は、酢酸カーミンで染色されたタマネギの細胞分裂プレパラートを模した図柄。

-若者、お風呂椅子に座ってシャワーを浴びている。
-近所のおじさん、湯船に浸かっている。
-若者、タオルを使わずに素手でボディソープを泡立てて身体を洗い始める。
-近所のおじさん、素手で身体を洗う若者を湯船から不思議そうに眺める。やがて、浴槽から立ち上がって若者に近寄り、彼に話しかける。
近所のおじさん「兄ちゃん、身体洗うタオル持ってないのかい? それじゃ洗いにくくてしょうがないだろう」
ー若者、やや困惑気味に「ええ、まあ」と返事をする。
近所のおじさん「ここは無料でタオル貸してくれるんだよ。ちょっと待ってな。今、店主に言って貰ってきてやるよ。タオルがあった方が洗いやすいからな」
-近所のおじさん、タオルを貰いに番台に向かう。
-若者、困惑気味に「すいません」と言いながら、番台へと向かう近所のおじさんの背中を呆気に取られた様子で見送ることしかできない。
若者(心の声)「素手で洗った方がお肌に優しいし、タオルでゴシゴシ洗うと善玉菌まで洗い流してしまって体臭がキツくなってしまうんだけどなあ。一説によれば石鹸を使わなくても、シャワーを浴びれば人間の皮脂の働きで十分に身体の汚れを落とせるらしいし。でも人の好意を無碍にするのは、それはそれでなんだか悪い気がするから、ここは何も言わずに受け取っておこう」
-近所のおじさん、戻ってきて若者に声をかける。
近所のおじさん「おーい、番台で貰ってきたよ」
若者「あ、どうもすみません。ありがとうございます」
-近所のおじさん、不活化液の入ったチューブと太めの綿棒、説明書が縦長のチャック付きポリ袋に入ったPCR検査キットを若者に手渡す。
ー若者、真顔でフリーズする。
ー近所のおじさん、同じく真顔で何も言葉を発しない。
ー耐え難い沈黙が延々と続く。無言かつ真顔で睨み合う二人。次第に、なんとなく二人で真顔にらめっこをやっているような緊迫感のある雰囲気に。
ー若者、近所のおじさんの顔を凝視しながら、ポリ袋から太い綿棒を取り出して先端を舌下に挟み、そのまま咥える。
ー近所のおじさん、若者から視線を離さないように後ずさりしながら浴槽に近づき、大量の柚子が浮かぶ湯船の底から必死にキッチンタイマーを取り出す。
ー若者と近所のおじさん、お互いの顔から視線を離さないように小声で声を掛け合い、協力し合いながらタイマーを3分にセットし、スタートボタンを押す。
ー近所のおじさん、若者から視線を離さないように再び後ずさりしながら浴槽に近づき、大量の柚子が浮かぶ湯船の中に手を突っ込んで水飛沫を上げながら水中を掻き回す。湯船の底から梅干しとレモンの写真を探り当て、取り出して若者に見せる。
ー若者、綿棒を咥えながら必死に梅干しとレモンの写真を見つめる。
ー近所のおじさん、梅干しとレモンの写真を片手で持って若者に見せながら、さらに、酸辣湯麺やもずく酢、酢昆布、かぼす、糠漬けなど酸味の強い食べ物の画像が大量にレイアウトされた拡大写真(模造紙サイズ)をダメ押しで湯船の底から引っ張り出す。それを自分の身体に巻きつけ、必死に若者の唾液を分泌させようとする。
ー若者、綿棒を咥えながら、近所のおじさんの頑張りを食い入るように見つめる。
ーちょうど良いタイミングでタイマーが鳴り出す。
近所のおじさん(検査員)「……綿棒をチューブの中に入れてください」
ー若者、不活化液の入ったチューブの中に綿棒を入れて栓を閉める。
近所のおじさん(検査員)「検査は以上で終了です。結果は2、3日後にメールでお知らせします」
若者「お手数をおかけしました。いざ検査となるとつい緊張してしまって、普通の検査会場だと上手く唾液が出なくて」
近所のおじさん(検査員)「ここまでしないと唾液が採れないケースは初めてです」
若者「うちの生活環境そのままの、心も身体もリラックスできるシチュエーションを用意していただき助かりました」
近所のおじさん(検査員)「あなた、どういう日常を送っているんですか」

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