見出し画像

人間と世界の探究 第7回


<範囲P85ページ下段~91>
【4社会論】
12.特に精神・文化の領域について
 精神・文化の領域は、他の二領域と比べて中身を推測しにくい。一言でいえば人間の個性に関わる領域である。教育もこの領域に含まれる。多く日本人は意外に感じるだろうが、ここでは一人一人の個性に応じた教育こそが求められている。平等な、画一化された教育ではない。また、教育は法律・政治の領域、経済の領域のいずれからも独立させる必要がある。
13.精神・文化領域と法律・政治領域(1)
 精神・文化の領域が法律・政治の領域から切り離されるべき理由について、例えば、試合でミスを犯した国家代表の選手が殺害されるといった事件まで起こっている。ある選手やチームが素晴らしいと思えば、国家とは無関係に応援するのが、本当にスポーツを愛する人の態度ではないだろうか。
14.精神・文化領域と法律・政治領域(2)
例えば、日本で開催される絵画展では、日本人画家の作品のみを展示すべきだろうか。国家という単位そのものが精神・文化の領域にふさわしくない。
15.法律・政治領域――民族自決
 どんな民族の人でも受け入れ、そして平等に扱うのが国家の役割である。民族自決主義は少数民族の抑圧をなくすと思われているが、実際にはそれを正当化してしまう提案なのである。個々人の違い、個性に関わる事柄は精神・文化の領域に属する。これに対し、法律・政治の領域では、すべての人を平等に扱うことしかできない。
16.法律・政治領域――多数決
 民主主義は、無批判に正しいものとされる風潮がある。しかし、シュタイナーは、このような態度を戒めている。
 多数決で決められるのは、みんなが理解でき、判断できることに限られる。例えば、難しい問題、専門知識が必要となるような問題は、専門知識を持つ人の意見が優先されなければならない。また、一つの地方に大きな負担をかけるようなことを、全体の多数決で決めるのも誤りである。
17.法律・政治領域――労働をめぐって
 現在、企業の労働者は企業の言いなりにならざるを得ない状況にある。また、法律・政治領域と経済領域の間に明確な区分が存在せず、労働は経済の一部として扱われているのが現実である。
18.法律・政治領域――労働と商品(1)
 現在、労働は経営者によって買い取られているという理解が一般的になされている。(ここの教科書の解説はわかりにくい。商品の値段は上限するし割引も、値上げもある)
19.法律・政治領域――労働と商品(2)
 労働とは人間の身体を使った活動のことである。労働に値段をつけることは、人間の身体あるいは人間の活動に値段をつけることに他ならない。つきつめていえば、人間に値段をつけることである。基本は奴隷売買と同じである。
20.法律・政治領域――労働と商品(3)
 種々の背景をもつ労働に、どうやって適正な値段をつけることができるのだろう。そもそもすべての人が生きる権利をもっている。つまり生きるために最低限必要なお金は、労働している/していないに関わらず支給される。そのように考えると、給料と労働がリンクしていること自体が不合理であることに気づく。
21.経済領域――食料援助
 かつては、敵対する国家の国民を意図的に飢えさせるようなことが行われてきた。経済の領域で行われるはずの事柄を、法律・政治の領域が扱っていることから生じる矛盾である。食料は、政治的事情とは一切関係なく、余っているところから足りないところへと融通されなければならない。
22.経済領域――餓死者
 「この国家を助けることにどれだけのメリットがあるか」を基準に判断されている。それほどのメリットがないと判断されれば、食料は援助されない。
23.経済領域――銀行
 GLS(ゲーエルエス)というドイツの銀行。この銀行では、融資先を自分で指定できる。例えば「有機農業と教育関係」
 利率についても、半分でもいいし、いらないということも可能である。利子をもらうためではなく、特定の分野で働く人々や、努力する人々を支援するための預金になる。
24.経済領域――価格
 価格(市場価格)は需要と供給との関係によって、自然に決まるとされている。
価格は単に放置しておくべきではなく、必要に応じて理性をもって対処する必要がある。もっとも重要な原則は、各人とその家族の生活が成り立つようにすることである。
 
<講義>
日本は教育について、政府は選択肢を絞っている。日本人は、教育については国家に任せておきたいという人が多い。冷たい視線をうける。先進国の発想ではない。みんな同じが大好きである。先進国の国民ならこのような発想に反発するものである。どんな人間・教育をうけるのかは本人が決めることである。国家が決めることではない。
 日本では、国民がこのような当然の権利を求めようとしない。
日本は医療についても、伝統医療を排除して、漢方が医療として認められなくなった。世界的に見て異常である。
 オランダは私立であっても授業料の負担はない。
 一定数の入学者を書面で証明すれば、だれでも学校が作れる。日本でも制度上はだれでも学校が作れる。しかし、土地・建物まで準備できる一般人はいない。日本では私立にいっても公立と大差ない教育がされている。このような教育が選べないことに気づくべきである。
 選びたいという人の権利を認める社会を実現すべきではないか。
 
選択的夫婦別姓と同じ構造である。研究者でも女性の場合、結婚後に姓が変わった時に、不利益を受けている方々が多くいる。
同性にすると不利益があるのであれば、選択を認めることがよいだろう。法律的に夫婦別姓を強制しているのは日本だけらしい。日本は同調圧力がある。教育も同じである。制度に賛成する人からすれば、何が問題なのかわからない。
よりよい社会をつくるためにという視点が求められている。自分に大きな不利益がないことは、それらの選択を認めるべきではないか。(自分が望んでいないことを他者に強要する社会は不健全ではないか。)
 
友愛の実現
親から赤ちゃんへの関係がわかりやすい。
自由と不平等でもOK
 
すべての人間が友愛によって結ばれている。
家族ですら理想論では。
シュタイナーは実現可能と考える。
近代社会の経済体制は「分業」が基本である。
すべての人が他社のための商品を生産している。その中で自分の利益のために活動しようとするから無理が生じている。
友愛は可能であり、他者のために尽くす余裕がない。将来の不安がある場合。
誠実な人ほど苦しい構造。できるだけ少ない努力で同じ収入を得たほうが得だろう。できるだけ手を抜こう。できるだけ楽をしたい。収入を労働時間等とリンクさせるのは間違い(シュタイナーの考え)
 
健全な経済とは。
正当な理由でそれを必要とするひとにお金が届く。
労働と商品を分離しなければならない。「労働」=「商品」のようなものが間違っている。労働は売買されない(値段がつかない)。売春が許されないことも同様に考えることが出来る。
三分節化された社会ではこのことがすっきり理解できる。
労働は法・政治領域であり、商品は経済領域。
 
土地は本来、経済領域に含まれない。
日光・空気・水と同様に扱われるべきもの。人間は痴情のどこかに住んでいる。
制限された範囲内では認められている。土地は環境である。
ある土地が何億もするはずもない。そもそも。
土地の表面を利用した場合の利用価値のこと。使用料・借地料という発想がよいだろう。社会のために有効に使ってもらう組織や人に使ってもらうという発想がよい。
手段であるはずのお金をなぜ欲しがるのだろうか。時間がたてば商品の価値が上がる場合は、お金を持っていた方が得である。生鮮食品は時間がたつと価値が下がる。よってお金を持っていた方が得である。シュタイナーの提案として、お金の価値が下がるという発想。シュタイナーの発想は、期限付きのお金。お金の鮮度を意識するだけのこと。
以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?