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ムーミンのいないフィンランド

 喜納氏の価値観を形成しているトリガーとなった出来事の背景を聴き手にまず共有している。
 そして、今後の研究テーマや本を執筆するなどの計画を語られている。この順序となったのは、語り手の個性的な経験、人間性や価値観をまず聞き手と共有することで、聞き手に驚きと興味を引くことを狙っていると推測している。後半に本当に共有したい・伝えたい内容をご説明されたのではないだろうか。
  喜納氏がこの授業でやろうとしたことは、まずは自分語りで、自分のことを知ってほしいという承認欲求を満たし、さらにその上で、聞き手にも、未来に起こりうる事象に対して、個々の受け止め方にやんわりとした独自のアドバイスを送っている。
  喜納氏のプレゼンについて私の受け止めは、以下である。まず、物事を深く考えていない熟慮していない印象を受けた。
  自分発の疑問に、自分で答えられていない、納得感が薄い印象をどうしても受けてしまう。その理由として、このようなプレゼンの方法が一員なのではないだろうか。
 たとえば言葉の選び方や表現方法が稚拙な印象を受けてしまう。例えば正直に言って○○なのかもしれません・・・
  や自分の主張に対して、〇〇かな?というような表現があったりすることからも表現手法や口調で、いったい何を主張したいのか非常に消化しきれない印象を受ける。
  もろもろの行動原理の理由が不明確であり、ご本人の行動の原動力となったものがいまいち伝わってこない。
 もっと他に理由があるのだろうと、自己開示できない素直になり切れていない部分があるのではないか。
  別にフィンランドは喜納氏を呼んだわけではなく、自分からフィンランドに行ったのである。
 そして、大学院を卒業して海外で働きたかったのであれば、奴隷的な労働をするのではなく、先生になりたいのであれば、日本以外で先生の仕事を探すことをなぜしなかったのか。
 自分の価値観で奴隷的な労働と決めつけているようであるが、そこで働いている方々を上から見ているようで、謙虚さが感じられない。現代社会において、平等と包摂が求められ、
 差別や偏見を助長している見方をしているように思えてならない。
 ウクライナ人の出稼ぎ労働者は別にフィンランドだけではなく世界中にいるわけで、私がポーランドに住んでいた時もポーランドでタクシー運転手をしているウクライナ人や、売春宿で働いているウクライナ人はそこら中にいた。それが奴隷的な仕事だろうがちゃんとした仕事だろうが、世の中資本主義経済であることからも、金銭的な稼ぎが必要な人たちがどこにだっているだろう。
 いわゆる不幸な側面に目を向ければそれが見つかるし、豊かな側面に目を向ければそれが見つかる。
 ご本人がどう観念化するのかということなのだろう。
 自分と貧しい人とを比較して優越的な立場でその貧しい境遇で同様に働くことを選択した理由が結局はその実態を多くの人に知ってほしいというような自己満足であることに気づいているのだろうか。
 このような、全く、不健全な批評を私自身がしてしまっているが、これが彼の狙いなのだろうか。
 今後もやりたいようにやればいいと僭越ながら喜納氏にアドバイスしたい。お好きにどうぞ。
 また、ムーミンのいないフィンランドというタイトルについても触れられておらず、そもそも説明する気がなかったのか大体は、推察されるが、本人の口からこのタイトルにした理由をまず語るべきではないか。
 フィンランドやムーミンに対してこの話の内容だと一部分のフィンランドの側面を捉えているだけで、奴隷的な話しかしていないところからも、それらをタイトルに連想させることから、
 フィンランドやムーミンに失礼に当たるのではないか。
 個人的には、事前に喜納昌貴とムーミンをネットで調べていたが、全然関連性が無く、蓋を開けてみれば、ただフィンランドに留学した琉球大学の卒業生の談義でした。非常にがっかりです。
 会社の研修で、交渉力の研修を受けたことがあるのですが、その時の研修のグループワークのメンバーの女子からは、「スナフキンみたいな人」と評されたことがある、ムーミンに関心のあったものですから、こんな奴隷みたいな労働をフィンランドでされて、ムーミンをディスっているようで、いきっている感じには納得がいかないという主張をしたいです。
 これらの意見はあくまで個人的な感想や評価です。喜納氏のプレゼンや考えはもちろん尊重しております。
 異なる視点や解釈が存在することを考慮し、自分の意見を主張させていただきました。

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