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物事の一面だけ見て判断してはいけない

私は「お母さん業界新聞」という情報誌の記者(マザージャーナリスト)をしている。
そのWebサイト「お母さん大学」に投稿した記事を、
加筆訂正してこちらに掲載する。

出産した女性だけが罰せられるのはおかしい

愛知県西尾市で昨年、専門学校生がトイレで出産し、その後逮捕された。
先日、執行猶予つきの有罪判決が出た。

妊娠がわかり、中絶しようとしたが、
相手の男性の同意が必要なため連絡をとろうとしたものの、連絡がつかなくなってしまったらしい。
そしてそのまま妊娠は進み、このような結果になった。

私は常々、こういう事例の時に母親のみが逮捕されるのがどうしても納得いかない。
そして第三者たちが発するさまざまな意見も納得いかない。
「なぜ避妊しなかったのか、なぜ相談しなかったのか」
けど、それができていたらこうはならなかったわけで、
それができなかった理由が、奥深くにある。

性教育の大切さはもちろん、
家族や親子の関係、環境、
行政や民間のサポート体制、

そして何より、

「こういう事例が発生した場合に、母親のみを叩くこの日本の幼さ」

自分の行為に対して責任を取らない男性に対して、鋭い目を向けることをしない、
それが今の日本の価値観を凝縮して表していると思う。

現在の技術なら、DNA鑑定だってできるし、
母親は、お腹の赤ちゃんの父親が誰なのか、たいていわかっている。
父親を探し出して何かしらの責任を負わせることは、容易なことだと思うのだが、
それをしない、今の日本の制度。

「妊娠出産」は女性しかできないが、「子育て」は誰でもできる。
しかし、その「子育て」「子どもに対する責任」まで、女性に負わせるという、凝り固まった価値観。

緊急避妊薬を市販すること、ピルの使い方を教えること、
女性が自らの身を守る手立てを、まったく許可してくれないのに、
望まない妊娠をして、育てられない赤ちゃんを10ヶ月お腹に抱え、
しんどい思いをして産み落とした後、逮捕される。

どう考えても意味が分からない。

すでに大人になった男性にあれこれ言っても、きっと価値観は容易には変わらないので、
わが子を含めた、これから大人になる子どもたちに、
きちんと教えること。それが何より大切。

性教育は性行為を教えることではない。
「命」を教えること。
「人生そのもの」を教えること。


最近の母親がスマホばかり見て育児してないんじゃないか問題。

本当に育児放棄しているのか、
スマホが唯一の命綱なのか、

どうしてその母親がスマホをずっと見ているのか、
その理由は、外から見ているだけでは到底わかるはずがない。

電車に乗っているときスマホを見ている母親。
その時間が唯一子どもから少し目を離せる時間なのかもしれない。
家にいたり、外を歩いていたりしたら、子どもから目を離すなんでできない。
だけど、電車に乗って座っていれば、とりあえず危ないことはそんなに起きない。
(状況にもよるけれど)

幼い子どもと一日中ずっと一緒な毎日。
自分のペースで生活することはまったくできない。
何かしたくても妨害され、どこかに行きたくても行けず、
雑誌や本すらもまともに読ませてもらえない。
おままごとだって、ずっとやっていたら飽きてくる。
外遊びだって、ずっとはこちらの体力がもたない。
だけど、ひたすら子どものペースに合わせるしかない。
夫が帰ってくるまでの長い時間、まともな休憩は全く取れず、息つく暇もない。
体調悪かろうが、精神的につらかろうが・・・
そんな日々の中、自分を保つためにできることと言ったら、ぼーっとスマホを見ること。
唯一外の世界とつながるツール。

「スマホくらい見せてくれよ」
というのが本音。
無になる時間をくれよ、という気持ち。

本当に育児放棄しているのか、
それは、子どもを見ればわかる。
虐待もしかり。

なんでもかんでも一律に非難したり罰したりするのは、違う。
そんな意味のないもぐらたたきゲームをしているうちに、
本当に助けなくてはいけない命が、また消えてしまう。


なんでこんなことを書いたのか。

先週からの、テニスの大坂なおみ選手の報道を見たからだ。
試合後の記者会見を拒否した、というニュース。
あれだけの有名な選手が、そして普段からさまざまな社会問題等を発信している彼女が、
そういうことをしたということは、きっと大きな意味があってのことだと、
たぶんほとんどの人がそう思ったとは思うが、
「だからといって、このやり方はいけない、大人げない」
などと、たくさんのコメントがあちこちで上がっていた。

そして先日、彼女のTwitterで、
実は記者会見がとても苦痛だったこと、自分は人前で話すことが苦手であること、
ここ数年、精神的にとても不安定になっていたこと、が発信された。

そもそも、彼女はテニスプレーヤーであって、スピーカーではない。
なのに、記者会見のせいで本業のテニスに影響が出るなんて、そもそもおかしな話。

この発信を受けて、
ニュース番組などのコメントは違ったものになった。
「うつだったのなら仕方がない」
しかし中にはそれでも、
「だからといってあのやり方はやはりおかしい」
そしてさらには、
「うつ病の人がスポーツなんてできるわけない。矛盾している」

すべての物事には、裏と表、そしてその間にあるもの、がある。
人はどうしても、自分の価値観で物事を判断してしまうが、
その時に、少しでも「自分の価値観では見えない部分」を慮る気持ちがあるかどうか。

結局それは、その人の経験値によるところが大きいのかもしれないけれど、

なんだか、今の世の中はとても息苦しい。

「自分はこうだったから、あの人のこれはおかしい」

自分と他人は違う。
同じことを経験しても、それに対する感じ方は違って当然なのに、
なぜそんなにも自分の定規で測ろうとするのだろう。

そんなことを悶々と考えながら、
今日も私は、洗濯をして、掃除をして、子どもたちのおやつを作る。

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