目撃者を探しています

帰り際に部長に呼び止められたせいでいつものバスに乗り遅れた彼女は歩くことにした。会社からマンションまでバスなら十五分、歩いても一時間はかからない。折しも満月が昇ったばかりで、散り始めた桜を眺めながらそぞろ歩くのも悪くはない。歩いて帰るのは随分と久しぶりだった。ランチに利用するいくつかの店も見えなくなったあたりで後続のバスが追い抜いていったが、彼女は気にしなかった。彼女が気に留めたのは、信用金庫の前の電柱に縛りつけてある立看板だった。何度も前を通っていたはずなのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。そこには、三年前の夏の日付と、

目撃者を探しています。

その日のその時間なら、絶対にここにはいなかった。何処で何をしていたのか、彼女は鮮明に思い出すことができる。立看板を覆っている雨除けのビニールは所々破れ、排気ガスと日差しによる劣化で濁っていたが、彼女の記憶には一点の曇りもない。

交差点を曲がる白いワゴン車に自転車が接触したちょうどその頃、メキシコ料理で誕生日を祝ってくれた男とホテルにいた。地中海あたりのリゾートを模したのだろうが、いかんせん古く、わざと表面に凹凸をつけて盛り上げたモルタルの白い壁も随分と燻んでしまっている。何度も使ったホテルだったが、彼と誕生日を過ごすのは初めてだった。午後九時四十五分ごろといえば、と彼女はついあの夜の鏡に映った自身の痴態を思い浮かべてしまい、けれどそれで顔を熱らせるほど若くはない。春の風がただ生ぬるかった。
「いい顔してる」と、彼女の欲情を煽るように言った彼の背中もまた、同じ鏡のなかにあった。
目撃者などいるのだろうか。彼は行為に没頭していたし、あの部屋の窓は斜めにほんの少し開くだけで、外は確か隣のビルの壁だった。隠しカメラでもない限り…そこまで考えたところで、馬鹿馬鹿しくなって止めた。目撃者といえばただ一人、彼女以外にはいない。彼女は鏡に映った一部始終を見ていたのだから。

立看板は、それ以上の情報を彼女に与えてはくれなかった。接触事故とあるので、自転車に乗っていた方もあまり大きな怪我はしなかったのではないか。そうであって欲しい。やがて忘れてしまえるくらいの、とその時、柔らかな薄手のコートの中でスマートフォンが鳴動して、彼女は電話に出る。
「ごめんね、今歩いてる。もうちょっとで帰るから」
塾からから戻った娘がお腹をすかせているようだった。
「パパは」と、けれど訊くまでもない。どうせ今日も遅いのだろう。「もう高校生なんだからご飯くらい自分で作れるでしょう」
そうは言いながら、娘の好きな茶碗蒸しを作ってやろうと彼女は思う。
彼との逢瀬は、娘が林間学校でいなかった四十歳の誕生日の後もしばらく続いたが、次第に間隔が開くようになってやがて絶えた。最後に会ったのがいつだったのかも覚えていない。あの夜だけが特別だった。あるいは、事故、だったのかもしれない。
三つ葉を買わなくちゃ、と彼女は呟いて、桜の花びらが舞い散る月夜の道を、ひどく明るく清潔なスーパーに向かって歩いていった。


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