死に目


 猫は死に目を晒さないというけれど、猫に限らず弱った野生動物は外敵を恐れて身を隠し、時にそのまま絶命するのが自然の習いなのであって、そこに特段の神秘はない。だから家のなかだけで飼っていれば、ある朝ちゃんと、という言い方が適当なのかどうか分からないが、いつものソファーの上で眠るように息絶えていたりもする。昔飼っていた影丸がそうだった。八百屋の軒先で拾った時には多分生後二か月くらいで、八ヶ月目に去勢され、恋をした経験もないまま生きて、暖かな部屋のなかでぬいぐるみのようになって死んだ。十一歳だった。それが奴にとって幸せだったのか、私には判断できない。そもそも、猫に幸せという概念や感情があるのかどうかも。いずれにせよ、私は影丸の、厳密な意味での死に目には立ち会っていない。
 このところよく、影丸のことを考えるようになった。とある事情から島に流れ着いてすぐ、米軍基地反対のデモを遠巻きに眺めていた時に知り合った書店員の女に、私は飼われている。首輪はしていないが、局部に貞操具が嵌めらている。貞操具の歴史は古く、諸説あるが、一般的には中世ヨーロッパの十字軍が発祥とされる。戦地に赴く兵士たちがその妻や恋人に装着させた。男性用となるともっぱら宗教的な理由から自慰を防止するため、十九世紀末の英国で使用されていたようだ。当時のものは金属製で、甲冑のように性器全体を覆っていた。書店員が通販で手に入れた現代の貞操具は、プラスティックのリングで性器全体の根元を締め付け、さらに竿の部分だけを覆うケースをそこに繋ぎ、南京錠でロックする。その状態のまま、私はほとんどの時間を過ごし、鍵はもちろん彼女が保管しているのだが、どうしてそういうことになったのかと問われれば、互いの趣味が一致したのだとしか言いようがない。宅配便で届いたその器具を見せられた時、私は何故だか無性に興奮したのだった。以来、私の生殖器はずっと透明なプラスティックのケースのなかで俯き、窮屈な思いをしている。性的な欲望から遠ざけるはずの器具が、逆にそのことを強く、常に意識させるというジレンマに苦しんでいる。最も辛いのは朝で、勃起の痛みで目が覚める。私は書店員の女に懇願する。願いが叶う時もあれば、ただただその膨張がおさまるのを待たなければならないこともある。今ではもう、欲望のままに思ってもいない時に鍵をちらつかせ、それを使って南京錠を開ける彼女に弄ばれるのを、私は待ち望み、喜ぶようになった。自慰はもちろん、触れることさえままならないのだから、一旦解放されればそこから得られる幸福感は喩ようもない。
その日もそんなふうだった。書店員の仕事は休みで、私たちは朝からずっと淫らな遊戯に耽っていた。だが、どこで何をしていようと誰かが必ず見つけ出す。あの町から二千キロも離れた南の島の、ひび割れたコンクリートで覆われた北向きの部屋で、突如としてスマートフォンが鳴動する。一度は無視したものの、二度、三度としつこいので、仰向けに横たわった私に跨ったままの女がそれを取り上げた。知らない番号だったが、市外局番には覚えがあった。私は女の下で腰をつかいながら電話に出る。
「――さんの息子さんですか」
パッヘルベルのカノンで母親の危篤を知らされるなんてあまりに馬鹿げているが、以前に付き合っていた二十五歳でふたりの子持ちだという女が勝手に着信音を変えてしまってから、ずっとそのままにしてあった。電話の男は医師だと名乗り、私の名前を確認し、患者の容体を説明した。
「とりあえず、人工呼吸器を挿管したいのですが」と、どこをどう経由して届いているのか分からないデジタルの声がそう訊くので、私はそこでようやく女の動きを制し、そっとその体の下から抜け出した。息が乱れているのを悟られぬよう、簡潔に答える。
「はい」
「ただ、挿管するとかなり苦しいので、全身麻酔をかけることになりますが」
「つまり…」
「つまり、呼吸はできますが、お母様とお話しは出来なくなるということです」
「でも必要、なんですよね」
 ベッドの端に腰掛け、テーブルの上の煙草に手を伸ばした。マットレスのバネと安っぽいスチールの骨組みが軋んだ。
 女が、私の表情から、あるいはその返答から何かを読み取ろうとじっとこちらを見つめている。困惑と少しばかりの悲痛を混ぜ合わせた笑みを浮かべ、煙草に火を点けた。
「挿管しなければ、数時間で呼吸は止まるでしょう」
「なるほど」
「こちらにはどのくらいでいらっしゃれますか」
 窓の外の夕暮れがくすんでいる。むしろもう黒ずんでいる。こんな南の島でも秋はちゃんとあって、夜の訪れも随分と早くなった。これから急いで空港へ行けば最終便には間に合うかもしれないが、その先の足がない。
「早くても明日の昼頃、でしょうか」
 すみません、という言葉を私は、意識的に飲み込んだ。
「それまで待てません」
「分かりました」
「と、仰ると…」
「理解した、という意味です」
「挿管しても構わないということですか…どなたか身内の方で、すぐに来られる方は」
「いません。私が、明日伺います」
 電話を切ると、灯りの点いていない部屋は薄い墨を流したバケツのなかのように静まりかえっていて、どうにも落ち着かない。動揺などしていない。母親のことが心配で居てもたってもいられない、というわけでもなく、そのとろりとした静謐な心持ちが、自身の居心地を悪くしているようだった。
 書店員の名前を呼び、今度は覆い被さって抱きしめた。あたかもすがるように強く抱いて、胸元に顔を埋める。大きくはないが、美しい乳房だった。右側の乳首は洗濯ばさみで挟まれたかのように、少しつぶれていた。その柔らかく変形した突起が、私は好きだった。ひとしきりその部分を舐めまわしたあと、わざとおどけた音をたてて口を離した。
「ごめん。何でもない」
「何でもないわけないでしょ」とは言わないところが、彼女の美点のひとつだ。気遣い、書店員は本のページを捲るように、私の萎えてしまったものをつまみ上げた。
「じゃあほら、またこれ、つけましょうね」
 まだ途中だと、私は抗議をしたが、聞き入れては貰えない。
「残念ね」
 彼女なりの、それは優しさだったのかもしれず、柔らかな指先が南京錠に鍵をかける音を、暗がりのなかでに私は聞いた。

 翌朝はまだ暗いうちに女の部屋を出て、空港へ向かった。セキュリティチェックで金属探知機に引っかからないよう、股間を固定する南京錠はプラスティックのものに交換してある。彼女は外してあげると言ったのだが、断ったのは私だ。
「寂しいから、このままで行くよ」
 正規運賃で航空券を買うのは初めてだった。空港内のキャッシュディスペンサーで金を下ろす時も、あるいは、カウンターで五万円近くする代金を払いながら、私はまだ迷っていた。流石に買ってしまえば諦めもついたが、高校を卒業して以来ほとんど縁のなかった、というよりむしろそれを断ち切ってきた町に、母親が死ぬのを待つためだけに帰るのはやはり気が進まない。正直に言えば、久しぶりに東京で遊んでいこうかとさえ、何度となく考えた。しばらく会っていない女友達の顔も脳裏を過ぎったが、何とかその誘惑を振り払って新幹線に乗れたのは、他でもない、貞操具のお陰かもしれなかった。
 乗車する前に、あまり好みではないブランドの缶ビールとシウマイ弁当を買った。シウマイは母の好物だったが、私がそれを買ったのは新幹線に乗る時の習慣のようなもので、思い出とも言えぬくらいの小さな記憶が蘇ったのは食べ始めてしばらくしてからのことだ。冷凍食品やスーパーの総菜で、シウマイ、シュウマイ、焼売のようなものを、母親は度々食卓に並べた。あれは何歳の頃だったか、好きなの、と訊ねると何故か無様に笑った。私は母親に好きな食べ物があるというしごく当然のことに驚き、軽い衝撃さえ覚え、どこか不潔な感じがしたものだ。
 味の薄いビールと一緒に弁当を平らげ、少し眠って起きればもう、車窓には見慣れた山並みが流れている。四半世紀経ってもまるで変わっていないようだったが、新幹線から在来線に乗り換え、その駅に降り立ってみるとやはり町は随分と様変わりしているのだった。町にただ一軒だけあったデパートは閉店しており、商店街はすっかり廃れてシャッターばかりが目立った。高校時代に授業を抜け出して暇を潰した、大資本のハンバーガーショップは営業を続けていたが、放課後に時折立ち寄った喫茶店は影も形もなく、その跡地と思しき敷地はコインパーキングに変わっていた。おそらく、この国のいたるところで見られる地方の光景なのだろうが、私にはまったく馴染みがなく、馴染みがないという意味でも他のどの町とも変わらなかった。タクシーに乗って辿りついた病院だけが、分不相応なほどに新しく巨大だった。聞いたこともなかった名前の病院で、かつてその場所に何があったのかも思い出せなかった。
 清潔で明るいロビーに患者の姿は疎らだった。ちょうど午前中の診察が終わる頃だったからか、漂う空気は弛緩しており、病院といよりもどこか地方空港の出発ロビーのようだった。壁には何枚かの絵画が飾られ、よく見るとそれらは全て同じ山が描かれている。吹き抜けになった二階まで届く大作が正面、受付の後ろの壁を埋めていた。夏の光を受けて聳え立つ霊峰の威圧感に少し怯んだ。
 薄いピンク色の看護服を着た女性に来訪の意図を告げると、ほとんど待たされることもなくまだ若い担当医が現れ、
「遠くから大変だったでしょう。どのくらいかかるんですか」
 私はその質問に答えようとしたが、時間のことだろうとは思いながらも運賃かもしれないと迷っている間に彼はもう歩きだしていて、追いかけると、歩きながらこれまでの経緯と施した処置についての説明を始めてしまった。
「大体のところは電話でお話ししたとおりなんですが」
 その後は特に悪化も改善も見られないという。私はとりあえず、まずトイレに行きたかった。もちろん、貞操具を装着したままでも小用は足せるのだが、飛沫に細心の注意を払わなくてはならず、できれば個室を使う必要がある。思えば、島を出てから一度も小便をしていない。私は医者の話を拭い、それから病室に戻って医者の説明を聞いた。機械に繋がれた母親の白髪は大分薄くなっている。人工呼吸器のマスクのせいで、表情まではよく分からなかった。何年ぶりなのか、数えることもない。
「あとどのくらいですか」とは流石に訊けなかったが、何かを察したのか、
「一般的に」と、最後に医者は言った。「こういう状態になると長くても一週間くらいでしょうか」
「ありがとうございます」
 少し怪訝な顔をして、医者が病室を出ていってしまうと、私はしばらくの間、掠れたようなポンプの機械音をぼんやりと聞いていた。母親にかけるべき言葉も思いつかない。ベッドの脇のパイプ椅子に座って、島で待っている書店員の女にメールを打った。
「しばらく帰れそうもないな。耐えられるかなぁ」
 彼女はまだ仕事中だ。返事は期待していなかった。すでにもう、リングが擦れて睾丸の裏側が少し傷んだ。

 十八歳の時に両親は離婚して、一人息子だった私は母親に引き取られた。とはいえ、それは戸籍の上だけのことで、実際には高校を卒業してすぐに上京してしまったから、母親とふたりきりで暮らしたことは一度もない。家族は離散した。直接的な原因は父親の浮気のようだが、物心ついた時から夫婦仲は悪く、おそらくふたりは、ベッドを共にすることもなかっただろう。私はずっと、暴君だった父親を憎みながらも、男としては共感せざるを得ない部分も確かにあった。母親は醜かった。慰謝料で買った2DKのマンションが、母親の人となりを如実に物語っている。もう二十年以上も母親がひとりで暮らしているその部屋を訪ねるのは、三度目だった。病院が預かってくれていたハンドバッグから見つけた鍵でドアを開けた瞬間、大袈裟ではなく、私は鼻を覆った。生ごみと黴、それに得体の知れない香水のような匂いが混ざり合っていて息ができない。自分で救急車を呼んで入院したのが二週間前だと言うが、おそらくそれ以前から大して変わらない有様だったのだろう。玄関からリビングまで続く狭い廊下には買い集めた靴や洋服の箱が積み上げられ、その上に洗濯物なのか、衣類が山となっている。訪ねて来る客もいなかったのか、リビングもまた物で溢れていた。私は息をつめたまま、とにかく窓を開ける。五階からの見晴らしは悪くなかった。南向きだったので霊峰は望めなかったが、無機質な工場の煙突とバイパスの車の流れの灯りが黄昏に浮かび上がる。深く息を吸った。風は温く、まだ夏の気配が残っていて、子供の頃からおなじみの製紙工場のばい煙の臭いがした。部屋のなかの空気に比べればよほどましだったし、各地で公害病が問題になったあの頃と比べればかなり改善されているのだろう。それでも、試しに網戸を指で擦ってみると黒く汚れた。ゴルフクラブを振り上げて追いかけてくる父親から、母親とふたりで逃げた煙突の足元の坂道を何故だかふいに思い出した。あれは幾つの時だったのか、父親が激昂した理由さえ今となっては覚えていない。
 ふいに、ポケットのなかでの短いチャイムが鳴った。
「大丈夫かな」と、それは書店員からのメールで、私は何と返せばいいのか分からなかった。
 もうすっかり暗くなった部屋を再び突っ切って、灯りを点ける。蛍光灯に晒された欲と世間体の成れの果ては、さらに無残だった。玄関脇の洋間は案の定、洋服やらハンドバッグやらで埋め尽くされていて物置のようだし、リビングから続く和室には前の冬から出しっぱなしの炬燵と布団、不必要なほど大きなテレビが鎮座していて足の踏み場もない。シンクのなかに放置された生ごみと食器に絶望し、冷蔵庫を開けてみる勇気はなかった。もうすぐ遺品となる膨大な量の物に囲まれているだけで気が滅入った。とてもこんなところでは眠れない。
 窓は開けたまま、網戸だけを閉めて灯りを消し、私はその部屋を出た。他に行き場があるわけではなかったし、この町に連絡できるような友人もいない。結局、駅から病院へ向かうタクシーのなかで見かけた二十四時間営業のサウナのネオンを思い出し、そこに潜り込んだ。公衆浴場で裸になるのは冒険だったが、常にタオルで隠していれば問題はない。いや、むしろ誰かに見られている、見つかるかもしれないと想像する感じも悪くはない。サウナで汗を流し、股間をその器具ごと丁寧に洗ってさっぱりすると、私は館内の食堂でホッピーを煽り、途中で焼酎に切りかえた。薄っぺらな館内着のパンツが心もとないが、男たちが思い思いに絨毯の上でくつろぎ、テレビの野球中継を眺めながら晩酌を楽しんでいる空間は居心地が良かった。
「何とか耐えてるよ」と、私はようやく、数時間前のメールに返事を書いた。
 書店員の女からはすぐに返信があって、
「頑張ってね」
 彼女もまた、いつ、とは訊けず、早く帰ってきてとも言えない微妙な状況に言葉を選んでいるのだろう。
「ありがと」
 私は焼酎のおかわりと、隣のテーブルでパンチパーマの男が旨そうに食べている唐揚げを注文した。
 野球は七回裏、大差がついていてもう皆、興味を失っている。

 休憩室で毛布にくるまって眠り、翌朝もちゃんと勃起した。その傷みで目を覚まし、もう一度風呂に入り、無料サービスのパンとコーヒーで朝飯を済ませると、十一時にはサウナを追い出されてまた病院へ向かう。よく晴れていた。思えば、母親の死を待っている数日の間ずっと、見事な秋晴れが続いた。日中は病室で、私はただぼんやりと窓の外を眺めるばかりだった。母親のためにやるべきことも、してあげたいことも何ひとつ思い浮かばず、それに飽きると、待合室のテレビでワイドショーと二時間ドラマの再放送を観た。そうして夕方、暗くなる頃にまたサウナに戻り、風呂に入って酒を飲む。そんなふうに同じことを三度繰り返した四日目の未明、母親の容体が急変した。病院に着いた時にはもう、人工呼吸器が作り出す規則正しいモニターの波形だけが命を繋げている状態で、少なくとも、医者からはそのように説明された。病院の廊下は暗く、病室はひっそりと、何もかもが青ざめて見えた。私は少しばかり飲み過ぎていて、息が酒臭いのを気にしてうまく喋れなかった。
「電源を落としてもかまいませんか」と、医者が訊ねた。
 私は躊躇うことなく頷いた。
 午前四時四十八分、機械が止められた。テレビのスイッチを消すのと、それは何も変わらないように思われたが、
「ご愁傷さまです」と、医者と看護師が口々に言うので、私は世話になった礼だけを残して病室から逃げ出す。病院の駐車場で煙草を吸った。明けていく夜より暗い巨大な山影が、意外なほど近くに迫っていた。
「母親が死んだ」と、私は書店員の女に短いメールを送った。
 すると思いがけず、すぐに返信が届く。 
 「ご愁傷さまです。とにかく死に目にあえてよかったね」
 場違いな喩えかもしれないが、謂われのない祝儀をいただいてしまったかのようで私はまたしても居たたまれない。
 私は本当に死に目に会えたのだろうか。
 あの人は、いったいいつから死んでいたのだろう。
 六日目、葬儀の日の朝に私は夢精をした。どんな夢を見たのか、それは覚えていない。

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