あなたの家族になってあげる

工事中の迂回路の表示に従って車を走らせていたら山深く迷い込んでしまう。どこかで矢印をひとつかふたつ見落としたのかもしれない。道幅がどんどん狭くなって、ついに未舗装の悪路にはまる。これは明らかに道を間違えたのだと、しかし、引き返そうにも車の向きを変えられるような場所もない。そのまま後進で戻る他ないのだが、左手には杉木立がせまり、右側は緩やかな斜面の草地でともすれば横転、転落、炎上という結果になりかねない。少し落ち着こうと一旦エンジンを切って彼は車の外に出る。いい天気だ。背筋を伸ばして深呼吸をする。辺りは静かだが、本当は騒々しい。自然はうるさい。風が木々を揺らし、無数の葉が擦れあって乱れ、空高くヒバリが囀る。森の奥では時折郭公が、そして鶯も啼いている。鶯はまだうまく啼けないようだ。いつの間にこんなに山を登ってきたのか、はるか眼下に民家や田畑が見渡せるその足下で、地虫の声が途切れることはない。

「シャガが咲いてるよ」

転げ落ちそうな斜面の際に薄紫の小さな花を見つけて彼は言う。彼女はだが、助手席に座ったままスマートフォンを弄っている。
「知ってる? シャガって種をつけないんだよ」と、山道に入ってすぐに彼自身が開けた窓越しに覗くと、

「さっきの三差路よ、きっと」
彼女はようやく彼の方を見る。あくまでそれは方向、方角の話であって彼を見ているわけではない。いったいいつからだろう、彼女とまっすぐ目を合わせることがなくなったのは。
「右に行くべきだったのよ」

「君もちょっと体を伸ばしたら。風が気持ちいいよ」
「大丈夫。それより早く戻りましょうよ。遅れちゃうわよ」

何が大丈夫なのだろう、と彼は思う。


彼女と知り合ったのはちょうど父親を亡くしたばかりの頃で、当時、これで天涯孤独だと半ば自虐的に気取ってみせていた彼に、彼女が言った。

「私があなたの家族になってあげる」と、パスタを茹でながら。

不思議なもので、そう言われてみるとそれまでほとんど感じていなかった寂しさのようなものが重くのしかかってくる。自分には家族が欠けているのだと、改めて突きつけられたような気がした。

ということは、知り合って六年か。今回は父親の七回忌の法要をしてもらうためにここにいる。彼はこの町で生まれ、中学まで育ったけれど、故郷という感覚はほとんどない。実際、今こうして道に迷っている。彼女が頼りにしているスマートフォンのナビも、工事中の道までは把握していなかったようだ。

「そんなに急がなくてもいいよ、どうせ他には誰も来ないんだし。それよりほら、シャガの群落」

最初に見つけたのは斜面側だが、辺りを見渡してみると杉木立のなかに盛大に広がっている。本来シャガは明るい日陰を好むのだ。
彼が指差した方に目をやることもなく、彼女は言う。

「和尚さんが待ってるでしょう」
「もうここまで来てるんだ。すぐに着くよ」
「あっちでバタバタしたくないのよ」

どうしても彼女にシャガの花を見せたかったわけではない。彼はただ、こういう無意味な寄り道をまた一緒に楽しみたかった。微笑んで欲しかったのかもしれない。かつて、システィーナ礼拝堂を見学するのに並んだ長い長い行列のなかで、四時間近くもふたりでしりとりを続けて笑いあった、あの頃のように。言いたいことをいくつか飲みこんで、彼は車に戻る。

「シャガは中国から渡ってきたんだけどね」

彼女は聞いていないし、彼もまたそれが分かっている。

日本のシャガは結実しない三倍体で、根茎を伸ばして繁殖する。あるいは人の手によって株分けされて増える。繁殖力は旺盛だが、決して子孫を増やしているわけではない。この国で咲いている多くのシャガのDNAは同じだ。ただひたすらにクローンを増殖させている。群落を作り、いくら賑やかに花を咲かせたところで、シャガは結局孤独なのだ。

そんなことを考えながら、彼はゆっくりと慎重に車を後退させる。三百メートルくらい戻ったところに、道幅が少し広くなっているところがあった。あそこで方向を変えられるかもしれない。





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