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【拳士の回生】1


 かつて、一人の拳士がいた。男の拳は、あらゆるものを滅ぼすことができた。はじめは一つの山を。次に十数の平原に広がる大軍を。そして、数百の刻に渡って君国を支配した、大いなるいくさ神龍かみを。暴虐の根源が打ち倒され、人々ははじめて暴虐と混乱から解放された。神滅の拳士は紛れもなく救国の英雄であった。

 だが、その男の名も、彼が救ったという国の名は闇に消えた。そればかりか、その国土も、生きた人々も、すべて久遠の彼方に消えて久しい。これは、世界がまだ無数の泡になる前の、失われた物語の一つである……。



 ……。

 …………。

 ………………。


 


 男が見上げる先には、天まで伸びる数本の管があった。この地に慣れない者にとっては異様な光景であろうが、ここツリーラインズの下層に住む者――つまり、男にとっては見慣れた空の姿であった。毎回ここに訪れては、思い出に耽るのが彼の日課となっている。

 幼いころの彼は常に刺激を求めていて、生まれ育った下層には退屈さしか抱いていなかった。打ち捨てられた巨大な管の一部と、ジャンク品の山が積み重なってできた凸凹の荒野に、しかし時が経ってみると愛着が湧くのだから不思議なものだ、そう男は感じていた。ここを離れるつもりはない。変哲のない日々が好きだ。それでも、時間が空くといつも上を見上げてしまう。

(…………)

 物思いに耽っていた男だったが、

「――ットさん。 ナットさん!」

 男……ナットは自分を呼ぶ声によって我に返った。

「ほい、ほい。どうしたプーリ、そんなに慌てて。転んじまうぞ」

 走ってきたのは、プーリという名の子供である。ナットの指摘通り、細い管のゴミに足を取られかけながらも、少年はナットの前までたどり着いた。全力で疾走してきたのだろう。肩で息を整えながら、プーリは言った。

「人が……人が倒れてるんだ! 男の人」

「なんだって?」

「こっち!」

 手を引かれるままに、ナットはプーリの後に続いた。進んでいく先には、ジャンク品の山がいくつもある。すべて、”最下層”から流れ着いたモノだ。この世界に来るもののほとんどがなにかの部品で、その例外の一つが生物である。ゴミ山の中にそういうものが紛れ込んでいることが稀にあるのだが……。

(おいおい、俺を呼ぶってことは、そいつは生きてんだよな。ジャンクの濁流で潰されずに来たってことは……)

 ツリーラインズに流れ着く生物のほとんどは死骸だ。哀れな野生動物であれ、高潔な意思を持つ何某であれ、押し寄せるゴミの質量には敵わない。敵うとしたら、相応の理由があるということだ。ナットは走りながら腰のベルトを確かめる。皮でできたベルトの先には、箱状の奇妙なポーチが接着されていた。

「もうすぐだよ、そこ!」

 プーリが指さした先に、件の男が倒れていた。ナットの予想に反し、彼は瓦礫の下敷きではなく、平地部分にうつ伏せになっている。2メートルはあろうかという長身に、筋肉粒々の体躯は、今までナットが見てきた者たちにはない特徴だった。そして何より。

「……おれは……」

 その男には意識があった。驚きつつも、ナットはすかさず男の傍に駆け寄り、訪ねた。

「おい、アンタ大丈夫か?」

「おれは……なぜ生きている。ここは……どこだ……?」

 うわ言のように男は呟いた。意識がはっきりとはしていないのだろう。

「アンタ、名前は分かるか?」

 ナットの脳裏には、男が侵略者ではないかという疑念があった。しかし、今のあり様を見て、ナットはその可能性を否定した。それどころか、彼には記憶喪失の疑いもある。哀れな遭難者に違いないと、そう確信したのだ。そのため、肩を貸しながら、ナットは名を問うた。そして、男は今度ははっきりと、自分の名を口にした。

「俺は……リユウ。ヴァン・リユウだ……」



◇ ◇ ◇



「よう、目ェ覚めたかい?」

 錆色の天井を眺めながら、ヴァン・リユウは意識を取り戻した。辺りを見渡すと、室内は広く、大勢が寝る場所だと分かった。リユウは上体を持ち上げ……声の主を見た。

「……助けられたようだな。ありがとう」

「俺はアンタをここまで引っ張ってきただけだぜ。まあ、それだけでも重労働だったけどよ」

 男は椅子を引きずりながら、リユウの近くまでやってきた。大きな鼻に長い耳。皮で作られているであろう服装とともに、リユウの知る文化にはないものだった。

「俺はナット。ここの管理者だ。よろしくな」

 背もたれのない椅子に座り、その男が名乗った。


「ナット、おまえの名か。おれは……」

「ヴァン・リユウだろ。引っ張ってる間に聞いたぜ。名前以外にも知りたいことはいろいろあるが、先にこっちのことを話しとかないとな」

 ナットは壁側を指で示した。そこには様々な図や紙が貼られており、なかでもひときわ大きく、巨大な木の絵がリユウの目についた。

「ここはツリーラインズ。鉄くずのでっかい樹の世界さ」




「ここが……樹の中だと言うのか。あんなものが実在するなど……」

 屋外。ガラクタの大地に立ち、立ち上る管を見上げながら、リユウは驚愕に息を呑んだ。リユウの知る世界に、このような光景は存在しなかったのだ。いつの間に世界は変容したのか。かつて絵空事と呼ばれた架空が、今や現実そのものとしてリユウの足元を支えていた。

「ここはまァ随分下の方だからな。登っていきゃ随分景色も変わってくるぜ。その為にはあの管の中を登っていかなきゃならんがな」

 ナットは空に伸びる管を見上げながら言った。

「普段、あそこにはここで採れたもんを運んでるんだが、人も通れるようになってるんだ。つっても、俺が許可した奴じゃないと入れないんだがな」

「物資の搬入……そして行き来の制限か。管理人と言っていたな。おまえは役人かなにかか?」

 その時、リユウは初めて敵意を露わにした。空間が張り詰める感触を肌で感じながら、ナットは腰回りのケースに手をかけようとした。

「おれの国にもそういうやつがいた。食料の供給を絶ち、逃れようとする民を閉じ込める、圧制者どもの尖兵だ。よもや、おまえがそうとは思いたくないが」

「おい、よせよ。お前、魔札カード使いじゃないだろ? 想像してる通り……かもしれんが、お前は俺に勝てない。やめといた方がいいぜ」

「魔札……?」

 リユウが眉を寄せたのを、ナットは見逃さなかった。想像通り、目の前の男は何も知らないらしい。この尋常でないプレッシャーといい、最下層から生き延びた生命力といい奇妙な男ではあるが、それでも、ナットのいる世界のルールの前では、個人の能力など無力だ。

「試してみるか。おれの拳に、その魔札とやらが効くかどうか」

(やっべ……火に油を注いじまったか)

 ナットは後悔した。この場を切り抜けることはできる。だが、一度魔札を抜けば、むしろリユウの身が危ない。最悪、辺り一帯に影響が出る恐れもある。無益な争いは避けたい、その発言はナットの本心である。どう争いを避けるべきか、思案を巡らせていると……。

「ナットさーんっ!!」

  緊張した空気を破るような明るい大声が二者の間を突き抜けた。声の主はプーリという少年である。最初にリユウを発見し、ナットに報告したのもプーリだった。彼はなにか急いでいたようで、ナットに向かってあれこれ騒ぎ立てた。

「あちゃー、また壊れちまったか」

「タックルの奴が動かそうとしてもダメだった……相当詰まってるみたい」

「アイツの馬鹿力でダメなら、いよいよ交換の時期かもなぁ」

 二者の会話に、今度はリユウが割り込んだ。

「よく分からんが、力仕事が必要か?」

「あれ、アンタ目を覚ましたんだ!」

 余程急いでいたのか、プーリはようやくリユウの姿を認めたようであった。一方のリユウはすっかり毒気を抜かれたようで、先ほどまで放っていた殺気などは微塵も発してはいなかった。その様子に、ナットは安堵した。

「この辺で採れたジャンクを濾す装置があるんだが、寿命なのか、それともやべぇもんでも詰まらせたか、動かなくなっちまったみたいでな。今までは力の強ェ奴に頼んで、無理やり動かしてもらってたんだが」

「それができないと困るのか」

「ああ。この下層の役割は、機械でジャンクを濾したもんを上に運ぶことなんだ。こいつらはその従業員で、労働の対価に生活を保障されている。輸送ができなくなったからって……俺がいる限り、すぐにどうこうって事にはさせねぇが、あんまり続くとよくないのは確かだな」

「なるほど、ならば手を貸そう」

 リユウは納得したように言った。

「ちょうど、助けてもらった恩をどう返すか悩んでいたところだ。おれには機械のことは分からんが、力だけは自信がある。役立てそうだ」



「よし、動いたぞ」

 リユウは力任せにレバーを倒す。すると、すぐ傍の機械が悲鳴のような音を立てて、すぐに稼働を始めた。それはベルトコンベアと呼ばれる帯が連なった装置に連結されていて、端から流れてくるジャンク品に処理を加えて、結晶状のなにかに変える装置であった。ここの者たちはそれを単にジェムと呼んでいた。

「あっ! 見てナットさん。ジェムの間になにか……あっ」

 プーリが手を伸ばす前に、その先にあったものをナットがひったくるように取った。

「ばか、プーリ! 手ェ突っ込んだら危ないって言ってるだろ。それに……こいつは魔札カードじゃねえか。もし触れちまって、万が一があったらどうするんだ」

「うぅ……ごめんなさい」

「ったく。詰まりの原因はコイツだな」

 ナットが仕舞おうとしたもの……魔札を、リユウは凝視していた。先ほど、魔札使いには勝てないと言われたことを気にしていたのだ。一見すると小さな紙っぺらのようだが、ジャンクを砕いているらしい装置を無傷で通過していることから、あるいは外見に反して相当に頑丈なのかもしれない。

 リユウの視線に気づいたのか、ナットが魔札をピラっと翻して見せた。

「やっと見せることができたな。そう、これが魔札だ。触ったら危ないが……よく見ておけよ」

 

「魔法も、バケモンも、神サマさえも滅んだ時代……この魔札だけが、残された最後の神秘だ」

 ゾッとするような声で、ナットは言った。



【続く】



 


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