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この箱はとても良い箱だ

2年ほど前の小説。明らかに途中で諦めている。

 僕らは正しい社会に生まれてきた。そのあまりにも徹底した正しさのために、僕らは僕らの顔を失うことになった。僕らは頭のすべてをすっぽりと覆う、大きな箱を装着している。カラーリングは150種類から選び放題。それが社会の総意であり、正しいので、反論するものは誰一人いなかった。数える程度のテロは起こったにせよ。
 教師は僕らに繰り返し言った。
「箱のなかのセカイは安全で、ひとりで、クールでいられる。内側からみんなは、外を好きなように観察できる。無関係でいられる。だから、箱を取ってはいけないよ」
 箱越しにしゃべっても、教師の声はよく通った。箱は不思議な構造で、内からも外からも、クリアに声の振動を伝える。
「はーい」
 僕らは名もなき教師に返事をした。箱は僕らを名前からも守ってくれる。名前はすごく恐いものだと教えられた。
「名前があるから、みんな、個性を出してしまっていたのさ。健太と名付けられた少年は健康かつ太っていなければならなかったし、美桜という名前の子は、美しい桜のような顔色をしなければならなかった。だからずっとお酒を飲んで、アルコール中毒になっていたんだよ」
 僕らは真剣な思いで聴いていた。なんて可哀想な時代の子たちなんだ!
 教師は他にも、箱についてたくさん教えてくれた。箱は僕らが生まれたときから付いている。本当の顔を直に見る人は「顔面直視能力検定2級」以上の資格を取らなければいけない。なので僕の母親は僕の顔を見たことがない。僕の父も同様だ。でも、決して見せていけないというわけではない。
「いいかい。とても親しい人になら、君たちは顔を見せてもいい。箱の前面を操作すると、パカッとドアのように開く。これはみんなが食事のときに使うモードだね。その状態で、他人のほうを向くとどうなるかな?」
 僕らはハッと息をのんだ。他人に顔を見られてしまうじゃないか!
「君たちはまだ人に顔を見せたことはないはずだ。生まれたときと、世話をしてもらっているとき以外はね。でも、大人になったら、わかるんだ。たとえば君たちに恋人ができたときなんてね」
 僕らはくすくす笑った。恋人、という言葉になじみがなかったからだ。
「ざわざわしないの。じゃあ親にしよう。親はみんなを産んでくれたし、身近な人間のうちもっとも親切にしてくれるパターンが非常に多いことで知られているね。だからこそ、顔を見せるという行為は、そういった信頼を表すことができるんだ」
「はい、先生」
「どうしたの23番さん」
「どうしてその、信頼、なんかを表さないといけないんですか?」
 教師はふーむと箱の下の縁に指を当てた。
「それはね、そのほうがスムーズな生活ができるからだよ。みんなの身体には感情というものがあって、それが快不快を定めているんだ。おかしな話だけどね。その感情を上手くコントロールするためには、信頼というものが必要なんだ。……まあ、私もよくわかっていないけどね」
 教室はどっと湧いた。教師がジョークのパターンを用いたからだ。

(この間原稿用紙5枚分なし)

 僕らはすっかり大人になった。成人式の当日、僕らを精神的にも成長させてくれた教師も会場に来ていた。
「先生。先生はいまもGですか」
「いいや。いまはDだよ。年を取ったものだな」
 教師は箱の側面を掻いた。つるつると指を滑らせる。教師は箱に髪の毛のオプションを付けていなかった。
「みんなは、自分の箱の内側を見せられるような相手はできたかい」
 僕らは箱を見合わせて、照れるように笑った。「はい」
 僕らは、生徒だったころから、僕らという一人称を使いすぎた。だからだろうか。箱のなかはたとえひとりでも、箱という共通項でくくられた僕らは、すでに他人ではないような気がしていた。
 僕らは成人式の終わり、僕らの庭で、僕ら自身の箱を取った。僕らはすでに僕らの顔を周知している。僕らはとあるビジネスを考えた。お互いの顔を見る、という行為は、とても素晴らしい行為だ。なぜか脳の中枢がむずむずとするし、見つめているだけで恍惚となる。僕らは互いに近寄って、頬を擦り寄せる。髪の毛に口をつける。これを商売にすることができるなら、僕ら以外の人間にもこの悦楽を気軽に体験できるなら。それほど社会貢献であることはない。
 僕らはこの行為を他人に提供することで、お金をもらうことにした。僕らはこれを「顔を売る」と名付けた。

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