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花人間

「花」テーマの小説。不出来。

 きょうは、花人間がうちに来る日だ。チャイムが鳴った。母が応対するその後ろで、僕はそっと花人間を見上げた。意外にも、ふつうの人間と大差はなかった。身長は父と同じくらい、顔もアルパカのように優しそうで、体つきもしっかりとしていた。ちがったところと言えば、ほのかに身体から土の匂いがすることだろう。
「本日からお世話になります。よろしくおねがいいたします」
 花人間は深々とお辞儀した。その礼儀正しさとしぐさに、僕はむしろ疑いを持った。
 母は花人間を二階の空き部屋に通した。花人間のために兄と僕が掃除させられた部屋で、もとは物置だった。拭き掃除までしたけれど、ダニの死骸とカビの臭いは取れなかった。母は「狭くてごめんなさいね」と言った。
「構いません。どうせすぐ花になりますから」
 花人間はすこしだけ投げやりなふうに言った、ように聞こえた。
「あ、布団は」
 僕は空っぽの部屋を見て思わず言った。花人間がこちらを見たのでぎくりとした。
「花人間なので」
 僕は花人間のことを詳しく知らなかった。だからその返事も僕にはよく理解できなかったが、なんの問題もないことだけはわかった。
 その夜、花人間を加えたはじめての食事だった。いつも座る長椅子のとなりに花人間が座った。そのせいで狭いスペースはより狭くなった。僕は花人間とくっつきたくなくて、母の方に寄った。晩ごはんの献立は鮭のムニエルだった。花人間の前にも同じものがある。どうやって食べるのだろう、と僕は花人間を見つめた。花人間は僕の視線に気づき、にっこりと笑いかけた。
「食べるのはふつうの人と同じだよ。水はたくさん飲むけどね」
 僕はさっと自分の皿に目を向けて、魚の骨取りに集中しているふりをした。
「お箸の使い方、じょうずだね」
 花人間はまた朗らかに話しかけて、僕の反応を待っているようだった。そのとき、父が花人間に質問を投げかけた。花人間は僕から視線を外して、父に応対した。僕はさっさと皿の上のものを食べ終え、無造作にシンクへ置いた。母が注意する声に曖昧に返事をして、すぐ自分の部屋にもどった。
 深い夜、僕は花人間の部屋の前に来た。扉に耳をつける。音はない。きっと眠っているのだろう。きょう最後に見たのは風呂上がりだった。花人間の後に入った父は「お湯がほとんどない」と漏らしていた。僕は扉の前でしばらくウロウロしたあと、ドアノブをそっと下に押した。忍者も気がつかないほど慎重に。
 花人間は立ったまま眠っていた。膝を伸ばしきり、肘も曲げず、背筋を伸ばし、首だけはだらんとうつむいていた。それは花人間が玄関で見せたお辞儀とそっくりだった。僕は花人間に歩み寄り、正面からゆっくり覗き込んだ。僕は思わず声をあげそうになった。
 目はぎょろっと見開かれ、顔中の血の色が失せていた。それは死んだ魚の表情にとても似ていた。僕は後退りして、すぐ部屋を出た。
 朝。よく眠れなかった。なんとか頭を起こして洗面台にたどり着く。冷水を顔にかけて鏡を見ると、花人間が背後にいた。
「おはよう。よく眠れた?」
 僕はうなずいているふうに頭をふらふら振った。
「昨日、部屋に来ていたよね」
 僕の心臓の大きさが三倍になった。花人間は眉をかすかに動かした。
「お願い、聞いてくれるかな」
 僕は唇を結んだ。
「私を看取ってほしい」
 花人間の声は神話的に響いた。

「おばさま、私は本日花になります」
 花人間の言葉に母はきょとんとしたが、すぐに「おめでとうございます」と返した。
「それで、こちらの息子さんに私が花になるところを見届けていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
 花人間が僕に向けて言った。僕はまっすぐ見つめ返した。
「え、でも」
「まあまあ。社会勉強としていいじゃないか。こちらからもよろしくおねがいします」
 父は朗らかに言った。兄はずるいぞ、と僕のお尻を蹴った。
 その夜、僕と花人間は家を出た。母は僕にお守りを持たせ、父は頭を撫でた。兄はずっと仏頂面だった。
 暗い道中、太陽光と似た光を放つという懐中電灯を、花人間の頭に当て続けた。花人間の私物だ。
「どうして来てくれたの」
 花人間が言った。
「あなたはいい人なのに」僕は言った。「全然親しげにできなかったから」
 花人間はくすっと笑った。
「きみは賢くって優しいね」
 着いたのは野原だった。ところどころに白や紫の花弁が見えた。緑は濃くも薄くもなかった。花人間は草をざくざくと歩いていった。
 突然、花人間の姿が消えた。慌てて見渡すと、花人間は仰向けに倒れて星を見ていた。
「うしかい座があるよ、ほら」
 僕は上を見た。星は3つほどしかなかった。目を戻すと、花人間はすでにいなくなっていた。僕は辺りを見回した。
 花があった。とても大きな、僕の背丈ほどの花だった。色はなかった。花弁は一秒ごとにほろほろと崩れていき、やがてなにもなくなった。空気さえ不透明であるかのように、なにも、なかった。

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