現在あるオタク・5 チェキはハンセン

 列の先がどんどん迫って来て、もう短かくなっている。
 仕切りの向こうで撮影している気配。
 そして稲葉君の快活な声が聞こえる。
 うあおううう。心の準備ってものが。
 こんな時に無くしたはずの羞恥心が「呼んだ?」と顔を出す。
 呼んでない。いや少しはあったほうがいいんだろうな、人として。
 仕切りの向こうの撮影ゾーンに入る手前に、全身映る姿見が置いてある。
 親切。優しい。スタッフ有難う。でも脂浮きを押さえる時間もない。

「はい、96番の方」
「あ、97番と夫婦なんで一緒に」
「分かりました。お入りくださいー」

 今回の仕切り役はとにかくお客様に優しい人だった。怖くなかった。助かりました。

「失礼しまーす」
「あ、ご夫婦ですか。ありがとうございます」
「いやもうドライブからのファンでして」←旦那
「じゃあ両側ですかねー」

 本当に美しいものに接すると人は無力である。
 細い、白い、尊いの稲葉君の両側できょどるおじさんとおばさんをエスコートして、私の方を引き寄せ、旦那の腰に手を回して←!
 カメラのフレーム内に収めてくれる稲葉君。
 色々話しかけてくれるのだが、言葉が意味ある言葉ではなく、心地良いサウンドとしてしか耳に入って来ない。
 ごめん。おばちゃんヒアリング能力失った。
 しかも視力も失った。お顔が、お顔が見れないのである。
 目が見れないのではない。ご尊顔そのものが見られないのだ。
 うおお悔しい。でもしょうがない。尊過ぎて目を上げられないのである。

 というわけで、視線は真正面の、白いTシャツの前面のピンクや黄色のプリントに向いた。
 薄いけどしっかり筋肉の質感が分かる胸板を見詰める形である。
 変態っぽくて申し訳ないっ。
 普通に(ひきつりながら)笑って一枚パシャッと。

「ありがとうございましたー」

 と退散しようとする私に稲葉君が

「もう一枚ありますよー」

 そうだった。旦那と2人分だから二枚分なのだ。

「もう一枚は何かポーズを」
「じゃスタン・ハンセンで」
「はい?」
「ウィーで」←12月3日の私よ、お前は馬鹿か
「ああーあー、ハンセンですね」

 声を立てて明るく笑う稲葉君。
 ハンセンを知っているのか。テキサスロングホーンのハンセンをっ
 かつてジャイアント馬場やブルーザー・プロディーと死闘を繰り広げ、ビックバン・ベイダーと眼底骨折に至るまでガチのどつきあいをしたハンセンをっ
 しかし天に向かって「ぐわし」を振り上げるポーズは夫婦どちらからともなく辞めた。胸の前でグワシを誇示するポーズにした。

 稲葉君は一枚目は被っていたオレンジ色のニットキャップをとり、艶々の九ミリカットで、歯を見せ眉を下げて、にっこり笑ってくれていた。
 可愛いと尊いしか私の脳内広辞苑から単語が消えた瞬間である。
 本当に髪質が良い人はたとえ五分刈りでも髪の艶が際立つんだな。
 そして白い。ただ白いのではなく毛穴が見当たらないほどに、汗腺が存在するのかこの青年には、と思えるほどにきめ細かくソフトスキンである。
 東ヨーロッパの体操選手の少女たち。そんなイメージをするとぴったりな、細筋肉質の美青年でありました。

 そして後で気が付いた。
 ハンセンのポーズは親指を握りこむのである。
 わしら夫婦は親指をぴんと伸ばしていた。
 これでは新日本プロレスの蝶野選手の『ガッデム』ポーズである。
 ガルパン親善大使・蝶野選手である。まずった。
 蝶野選手は大好きだが、今はハンセンで撮りたかった。

 そして、書泉グランデの握手会や出版イベでは嗅いだことのなかった、バニラに少しムスクの入ったような、温かい秋冬向けの香りがした。
 多分他のスタッフの香水ではないと思う。
 似ている香りと言えば、ロシャスのトカードゥか、バス用品ショップのアンバーバニラ。
 トップは甘いフローラルだが時間がたつとアンバーとムスクと、少しのバニラの温かく個性的な香りに変化する。
 メンズでもそういう香りを開拓したのかもしれない。
 それか舞台で共演なさっているどなたかに教えてもらったのか。
 息子程の年齢の推しが大人の香水をつけるようになったか……一人謎の感慨にふける婆。

「ありがとうございました。この人明日入院なんですよ。元気もらいました」

「いや本当に来てよかったです。パワー頂いてありがとうございます。お体おきを付けて頑張ってください」
「ありがとうございます、あの、頑張ってください」

 最後までファンを気遣う稲葉君。素早く一礼して階段を下りる私たちは、幸せだった。

「さあ帰ろっか。良い人だったね」←旦那
「うん。可愛かったね」←わたし

 そしてお天気の代官山を後にして、カーステレオで「サプライズドライブ」と「エタニティー」を流しながら、30年物のフィアットは走った。
 家に帰って最新作の「将棋めし」を見るために。

 以上、オーバーフィフティーのオタク夫婦が、好青年中の好青年に浄化された顛末記でした。
 最後までお読みくださりありがとうございます。
 稲葉君の様子をもっと書いてほしかったことと思います。
 わしら夫婦の諸々や世迷いごとなんて余計だったと思います。
 そこは本当に申し訳ない。でもこれだけは言いたい。
 機会があったらチケットとって、何をさておいても駆けつけたほうがいい。
 絶対に一生の思い出になるから。
 そして、その後の人生を豊かにしてくれるし、応援したいと思うし、なにより心の中を温めてくれる宝物になります。
 家族や、記憶や、愛情や…そういう物と並ぶ宝物になりますので。

 ではでは、ポンコツな長文失礼いたしました。貴女のファン活動が明るい物でありますように。
 そして稲葉友君の表現者人生が健やかで、傷つけられたり落とし穴に落ちたりしない、強いものでありますように祈りつつ筆を置きます。

(追記) 旦那、4日朝無事入院しました。
「マンガ本持って来すぎたから、明日引き取りに来てー」
 というメールが来ました。
 あほー

(追記その2) 旦那、11日に無事退院し、翌日から出勤していました。とめたのに。
 今のところシャワーのみ。湯船には浸かれません。
 毎日傷口の絆創膏貼替えて、時たま内臓の奥が痛むそうです。
 そういう言い方ゾワゾワしますよね。
 でも楽しんでいます。艦コレやって、モンハンやって、ウルトラマンジード見て、ニチアサ見て……
「仮面ライダー平成ジェネレーション」
 25日に手術の結果が出るそうです。転移していませんように。

(追記その3)
 旦那の腫瘍は悪性でした。
 右腎臓摘出してよかった。
 初期の、まだ生存率の高い段階でホッとしました。
 皆さん、がん検診の他に会社の健康診断な腫瘍マーカーがオプション出会ったら、迷わず全身診てもらう事をお勧めします。
 旦那はそれで発見しました。
 摘出してみると既に5センチ台になっていました……
 それと、がん保険はフルで入っていたほうがいいですよー。

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