漫画『ゴールデンカムイ』はどのようにして差別と闘ったのか―アイヌ文化と生命の継承― ①
漫画「ゴールデンカムイ」について
野田サトルの漫画『ゴールデンカムイ』が完結しました。
この漫画に対する社会的な評価は極めて高く、2016年のマンガ大賞・2018年には手塚治虫文化賞、2021年には第24回文化庁メディア芸術祭 マンガ部門ソーシャル・インパクト賞を受賞しています。
2019年に、大英博物館で「マンガ展」が開催されたときには、日本の漫画文化の代表としてキービジュアルになりました。
この作品が社会的影響を持った理由の一つは、綿密・膨大な調査を下敷きにしたアイヌ文化に関する描写です。北海道各地の博物館でも続々と関連展示がされ、アイヌ文化を普及する上でも多大な貢献があると広く認められています。
個人的にも、以前から最も好きな漫画の一つです。ちなみに、私の推しは海賊房太郎です。
ゴールデンカムイは差別を描かなかった!?
ネット上での評判を見る限り、最終回「大団円」は、多くの「金カム」ファンにとっては納得がいくものでした。
その一方で、一部の人たちからは「アイヌ差別を描いていない」という批判が上がるようになりました。たとえばこういうツイートです。
こうした批判に対して、ファンからの主なリアクションは、「フィクションに多くを求めるな」というものでした。他にも、「実際には差別を描いている」という反論もあります。
どちらの反論も一理はあると思います。しかし一ファンの私としては、「差別を描いていない」という批判に対しては、真っ向から反論したいのです。
作者は「かわいそうではないアイヌ」として、天真爛漫に生きる民族の姿を描いた訳では決してありません。『ゴールデンカムイ』は、帝国の迫害に対して、苦悩し、戦いながらも自らの道を歩む少数民族の物語なのです。
「ゴールデンカムイでは差別が描かれていない」という批判は、全編通して読んでないか、まったく「読めていない」かどちらかだと私は断言します。
このシリーズでは、具体的に読み解くなかで、「ゴールデンカムイ」という物語が差別について描いていただけでなく、作品そのものが現実の差別との闘いであることを示していきたいと思います。
予定では、合計三回に分けて掲載する予定です。初回は完全無料公開とさせていただきます。
引用については著作権法32条で定められたルールに基づくものですが、著作権者の削除要求があれば対応いたします。
なお、記事にはネタバレがあります。物語の核心部分(とりわけ最後の3巻程度)の筋書きにはできる限り言及しないように心がけていますが、ご注意ください。
『ゴールデンカムイ』における差別について
アイヌ差別との闘い
まず、アイヌ差別について、直接的に描写されているシーンを確認しましょう。
第一話の冒頭では、次のように書かれています。
―アイヌの生き方を禁じ迫害してきた日本人に抵抗すべく、一部のアイヌが軍資金を密かに貯めていた―この物語がそれを巡って争われる「アイヌの金塊」が生まれた経緯です。
これは、単なる導入エピソードではありません。「ゴールデンカムイ」とは、まさにこの呪われた金塊のことを意味しています。後に明かされますが、この金塊こそ、主人公のアイヌの少女アシリパに託されたものでした。そして金塊とともに彼女には、少数民族の生存をかけた闘いもまた託されたのです。その戦いこそが、この物語の本筋です。
他のアイヌ差別の描写を見てみましょう。
「第三の主人公」とも言える白石吉竹との出会いのシーンにおいて、アシリパの相棒である杉元は、「飼いイヌ」というアイヌへの典型的な差別発言を聞いて、杉元が激怒したのでした。
もう一つ、アイヌ差別については、非常に重要なシーンがあります。
このシーンでは、和人によるアイヌ差別を背景にした、アイヌの異なる地域同士の複合的な差別について描かれています。この場面は、『ゴールデンカムイ』において差別がどのように考えられているのか、非常に重要な示唆が含まれています。
杉元佐一の根底にあるのは、差別に対する怒り
繰り返しになりますが、『ゴールデンカムイ』は、主人公アシリパに託された差別・迫害との闘いの物語です。
もう一人の主人公、アシリパの相棒である杉元佐一も、差別との闘いはその生き様の根幹に関わるものでした。先に挙げた白石の差別発言に激怒したシーンの直後、杉元の回想シーンが入ります。家族が結核で全員死んだとき、どのような仕打ちを村人から受けたかを思い出すのです。
この「迫害」と題されたエピソードでは、杉元の奥底にある差別に対する凄まじい怒りが描かれます。
杉元の差別に対する怒りは、物語の中盤にも表れています。
これは、他人を「妾の子ども」と揶揄する悪口に対して、杉元が「本当にくだらねえな」と一蹴するシーンです。
ここで悪口を言われた人間は、尾形百之助であることは特筆に値します。この会話は、杉元は尾形に殺されかけ、杉元は復讐のために樺太まで追いかけている状況での会話です。その仇敵相手に対するものでさえも、杉元は差別発言に対して侮蔑的な態度を取っています。
杉元は後に尾形に「元気になって戻ってこい、ぶっ殺してやるから」とモノローグで語るのですが(第20巻 第200話「月寒あんぱんのひと」)、殺人でさえも時に肯定的に描かれる、この物語の倫理的に特異なスタンスを端的に表しています。
差別という比類なき絶対悪
『ゴールデンカムイ』において、「差別」は一体どのような位置づけなのでしょうか。
この物語では、網走監獄を脱獄したありとあらゆる凶悪犯が、時にユーモラスな姿で描かれています。その多様さは、まさに「変態博覧会」と言えるほどです。
その囚人の中で、ほぼ唯一まったく救いがない姿で描かれているのが、マイケル・オストルグです。娼婦の母親という出自に苦しんだ彼は、自分が性行為なく生まれた子どもであると信じ、娼婦を何人も殺害したのでした。それがイギリスの「切り裂きジャック事件」※です。彼はのちに日本に逃れてきて、札幌で同じ犯罪を再現しようとしたのでした。
※もちろん物語上の設定です。
具体的な犯行内容がわかっている囚人の中で、差別的理由で他人を殺したのは、おそらくオストログだけです。そんな彼にアシリパはストゥ(アイヌの制裁棒)を容赦なく使用します。
決して乱用を許されないストゥを「本気で」使用するのは、長い物語の中でおそらくこの場面だけです。(結果的には、オストルグを制裁するために、大きなストゥを小柄なアシリパが持ち歩いて旅をしていたということになります。)
その直後、アシリパと合流した杉元は「誰から生まれたかよりも 何のために生きるかだろうがッ」と怒り狂います。
激怒した杉元は、オストルグを苛烈極まる方法で惨殺します(センシティブなので画像は上げません)。物語中、杉元が殺した数多の人間の中で、可能な限り苦しめる仕方で殺したのはオストルグしか思い当たりません。
以上見てきたように、アシリパと杉元の主人公2人にとって、差別こそが絶対に許すべからざるものであることがわかります。
ただし、2人の怒りの力点は、ここでは微妙に異なるかもしれません。アシリパにとっては生殖と愛に対する侮蔑に対する怒りがあり、杉元は出自よりも、何の為に生きるかが大切だと怒るのです。
しかし、2人の怒りには、ある深い共通点もあります。彼らにとって、差別は生命に対する冒涜であり、何よりも許すべからざるものであるという価値観です。
なぜ「ゴールデンカムイ」において、殺人ではなく差別が絶対悪として位置づけられているのでしょうか。それを理解するためには、ゴールデンカムイにおける生命観をたどる必要があります。
次回「生命の継承、人間の故郷」では、ゴールデンカムイの中心テーマに迫ります。
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