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モーセの電話

 朝六時に電話が鳴った時、ベッドの中でまどろんでいたモシェは手を伸ばして受話器を手にとった。はじめは無言だったが、一〇秒ほどすると意を決したように
「もしもし……えーっと、モーセ様ですか?」という舌足らずな声が聞こえた。モシェは眉を顰めて
「あぁ」と答えた。
「えっと……その……ぼくは正直になります。ぼくはこれから、あなたが言った通りにします。だから……その……ぼくは天国に行けますか?」
 モシェは面食らった。ほとんどの人々同様、彼もそういった質問をされたことがなかったから。乱れた髪を掻いたモシェが言う。
「誰かの言う通りにすれば、あの世でいい目に遭えるなんていうのは、虫のいい話さ」
 受話器の奥から戸惑った声が聞こえた。モシェが言う。
「天国なんていう、遠くのものばかりを見てないで、近くのものをよく見ろよ。生きてりゃ苦労する。いい奴にもわるい奴にも会う。要するに、あるがままにあれってことさ」
 モシェは「じゃあな」と言って電話を切り、再び夢の中に旅立った。

 この物語はここで終わる。補足のために記すが、電話帳に記載されているモシェ・アルカラの名前は綴りが間違っている。不精者のモシェ・アルカラが石板のように厚い電話帳の事実に到達することはないだろうし、ネボ山に登ることもないだろう。しかし、一人の少年の不安が取り除かれた。

 それから、モシェは昼過ぎまで眠った。この眠りは四〇年に及ぶ荒野の放浪に匹敵する。自ら語ることがなければ、手を差し伸べることをしない、暗黒の最奥で粒子と戯れる創造主と比べて、彼の言葉にはささやかな真実が含まれていたのだから。

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