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誰がハンノ・リーヴァスを殺したのか?

 ハンノ・リーヴァスはポール・ゲティ美術館で一一年間、絵画の修復に従事した。彼はチェーザレ・ブランディによる『修復の理論』を体現したような人物であり、芸術作品を未来に伝達することを目的とし、芸術作品の物理的実体と対極をなす美的、および歴史的な二面性において芸術作品を認識する方法論的な瞬間を成り立たせることに使命を感じている。そのようなハンノがポール・ゲティ美術館を辞めた理由は判然としない。ハンノは美術館から近くにあるアーモンドの木に囲まれた一軒家を借りて自宅兼工房として暮らしている。独立してから修復の依頼が絶えたことはない。
 依頼人であるロイズ・リーは工房で修復された油絵を受け取るなり、鮮明になった油絵を見て
「信じられない」と言った。リーは禿げ上がり、ニスを塗ったような頭頂部をハンカチで拭い、もう一度「信じられない」と言った。ハンノは理解に苦しむ。なぜなら、彼の手にかかれば絵画が輝きを取り戻すことは当然のことだから。感極まった様子のリーが油絵に描かれた人物について喋り出す。

 曰く〈南北戦争の英雄〉、〈南部の良心〉、〈人間的義務感〉

 はじめのうちこそ笑顔を浮かべていたハンノだったが、次第に笑顔はぎこちないものに変わり、小一時間ほど経った頃には仏頂面になっていた。それでも、リーは語ることを止めない。リーの口調は山火事のように広がっていく。
「彼は、まさに英雄でした。同時に道義的、公共心に満ちた人物でもありました。屋敷を手放し、僅かに残した農地を一人で耕しつづけたのですから。リーヴァスさん、この意味がわかりますか?」
 ハンノは別のことを考えていたが、名前を呼ばれたことで現実に引き戻された。ハンノが相槌をうつと、リーは満足げな笑みを浮かべた。
「えぇ、えぇ……そうですとも。実に素晴らしい人物だ。気骨がある。私はお世辞にも気骨あるとは言えませんが、このような人物の姿を残していくことに使命を感じるのです」
〈姿を残す〉特に〈使命〉という言葉はハンノの心に響いた。ハンノは社会生活を円滑に進めるための笑みを捨て
「お茶にしませんか? こうやって立っていては疲れるでしょう?」と言った。ハンノに促されたリーが木製の椅子に腰掛けた。この椅子はファン・ゴッホが描いた『ゴーギャンのひじ掛け椅子』そっくりに作ったもので、ひじ掛けの曲がり方、クッションの黄色い皺、光を浴びると青みがかって見えるように計算し尽くしたものである。そのことをリーが気付いた様子がないことは不満だったものの、お互いに共通するものは数える程度しかないと理解したハンノはコーヒーを淹れることに専念した。コーヒーをテーブルに置いたハンノはパイプが置かれた椅子に腰掛けた。こちらは『ゴーギャンのひじ掛け椅子』と対になったポール・ゴーギャン作『ファン・ゴッホの椅子』そっくりなもので、へこみ具合や褪せたような黄色を再現するのに随分と苦労させられたものだ。ハンノがパイプを握ると、リーが言う。
「煙草を吸われるのですか?」
「いいえ。これからも吸わないでしょう」
「では、イミテーション?」
 微笑を浮かべたハンノが「そう、まがいもの。ですが、甲冑や毛皮、宝石に比べれば慎ましいものです」と言うとパイプをポケットにしまってコーヒーを飲んだ。少しの間だけ交わされたとりとめのない会話の後、ハンノは壁にかけられた絵画に目をやった。シャイム・スーティンやモーリス・ユトリロといったエコール・ド・パリ風の油絵。これは、彼が心を動かされた作品の優れた点を寄せ集めた奇妙な合成獣であり、制作されてから日も浅いが、修復士としての才能に恵まれたハンノにかかれば時間の荒波に揉まれた作品に変身してしまう。作品に何かが欠けていると感じているハンノは心の中で舌打ちしたものの、顔に出すことはしない。リーは重たげな瞼を動かし
「素晴らしい。どなたの作品ですか?」と言った。顎に手をやったハンノが「エリヤ・ウルマニス」と答える。咄嗟に思いついただけの名前だったが、音節は耳に心地よく響いた。
「見たところ、二〇世紀初頭の印象派のようですが、どういった画家なのでしょう?」
「たしか……そうですね、ラトビアの画家です。昔、気に入って何枚か購入しました」
 リーはハンケチで頭を拭いながら何度も「素晴らしい」と繰り返した。夕暮れの光に照らされた絵画、灰色を基調に構成された作品は蠢いているように見えた。
 コーヒーを飲み終えたリーは礼を述べた後に依頼した絵を大事そうに抱えて工房を後にした。ハンノはポケットからパイプをとり出すと、ファン・ゴッホの椅子に寸分違わない角度でパイプを置き、依頼されている他の仕事に取り掛かった。

 二週間ほど経った頃、ハンノが一休みしていると工房のドアがノックされた。ハンノは電話線を引かず、通信手段は手紙だけ。訪問客は依頼人が作品を持ち込む時と持ち帰る時だけと決めている。うんざり顔でドアを開けると見覚えのある顔が一つ、見覚えのない顔が三つ見えた。顎に手をやったハンノが言う。
「リーさん、こんにちは。その後、いかがですか? 修復の依頼でしたら申し訳ありませんが数か月先になります。手が空き次第、こちらから手紙を書かせていただきます」
 素っ気ないが丁寧な言葉の後にドアを閉めようとすると、リーがドアに身体を挟もうとしたので、慌てて手を止めた。
「どうしたんです?」
「もう一度、先日の絵を見せて下さい。お願いします。今日はサンディエゴの友人たちが一目見たいと来てくれたんです。どうか、どうか……」
 圧倒されたハンノが「どうぞ」と言うと、リーと彼の友人たちがどかどかと入ってきた。ハンノは突然の訪問者たちを苦々しく感じているし、時間が空費されているとも考えている。壁にかけられた絵の前ではリーたちが声を潜めて話している。それは会話というよりもつぶやきが代わる代わる立ち現れて消えていくようだった。彼らの身なりは良く、どこかの会社の重役といったところだろう。やがて、リーの友人である背の高い男が
「これをどこで手に入れたのですかな?」と尋ねた。名乗る前に質問をすることは無礼なことだが、彼らはそれが当然のことだと言わんばかりの態度だった。ハンノが言う。
「昔……どこで買ったかは忘れました」
「エリヤ・ウルマニスというのは?」
「たしか……ラトビア出身です。二〇年代はパリで生活していたようですが、そのまま消えたようです」
 出鱈目を並べているうち、次第に何かが繋がっていくように感じられた。リーが吐き捨てるように
「フランス人は見る目がない」と言い、呼応した三人の友人たちもうなずいた。
「それにしても、素晴らしい。時間を飛び越えていくようだ」
「まったくその通り」
「技巧的だが、感情に由来されていることがわかる」
「興味深い……非常に」

 一時間ほど絵画を隈なく眺めた後、リーが口を開く。
「リーヴァスさん、この作品を譲っていただけませんか? もちろん、タダとは申しません。金額は」
 三人が指でサインをし、リーがうなずく。
「四万ドルではいかがでしょう?」
 自身の目と耳を疑ったハンノが聞き返すと、リーは再び「四万ドルではいかがでしょう?」と言い、さらに「これだけの芸術には安すぎましたね。六万ドルではいかがでしょう?」と続けた。ハンノは目を白黒させながら
「待って下さい。私は修復士であって、画商ではありません」と言った。リーと三人の友人たちは、もっと金額を上げるつもりのようだったが、ハンノが「この絵は売れません」と言ったことで競売は中断された。四人は声を潜めて話し合う。話し合いが終わると、リーが「残念です」と言った。四人が帰り際、ハンノが「修復の依頼でしたら、ご相談ください」と言うと、背の高い男は冷たい口調で
「君の仕事に興味があって来たわけじゃない」と言った。

 ハンノの物置部屋には彼の奥義が静かに鎮座している。溶剤や絵の具は無数にあり、木炭や鉱石といった、一見すると仕事に関係のないようなものまで置かれている。薄暗がりの中、茫漠とした様子で溶剤が入ったビンを掴むハンノの姿は馬糞を小人に、卑金属を金に変える錬金術師のよう。ハンノはありふれた風景画を修復している。これは一九世紀にイギリスで流行したタイプの油絵だが、以前、この作品を修復した修復士は自身の腕前を誇りたかったために処理が過剰に施されている。ハンノは溶剤を使い、以前の修復士が恣意的に上塗りした油絵具をそぎ落していく。地味で根気がいる作業なのに、一歩間違えればオリジナルを破壊してしまう。常々、彼は次の修復士のことを考えている。修復は最低限。しかし、効果は最大限でなければならない。修復した箇所はわかりづらいが、まだ見ぬ次の修復士が見ればオリジナルとの切れ目が一目瞭然であるようにしなければならない。彼は問う。

〈一時を埋め、次の誰かにそぎ落とされるだけなのだろうか?〉

 問いに対する答えは壁にかけた絵を物置部屋にしまうことだった。それから、一週間もしないうちにハンノはエリヤ・ウルマニスという出鱈目な名前や、リーと彼の友人たちのことも忘れた。

 七時三〇分、ハンノは庭で体操をしている。音楽を流すことなく、自身の心と身体のためだけに行う運動は独創的な舞踊のようであるが、柔らかな顔をした太陽への供物でもある。家のまわりに植えられたアーモンドの木の葉が揺れて菱型の影が差す。後方から発せられた
「ハンノ・リーヴァスさんですか?」という言葉に驚いたハンノは動きを止め、呼吸を整える。
「えぇ、そうですが……あなたは?」
 男は胸ポケットから革の名刺入れをとり出す。
「『アート・ディスカバリー』のヘイデン・エアーズです。『アート・ディスカバリー』はご存知ですか?」
「えぇ」
「最近の購読はご無沙汰?」
「雑誌を読まなくなって久しいものなのですから。それで、何の御用でしょう?」
「美術収集家のロイズ・リーさんからお話をうかがいました。聞くところによると、あなたはとても素晴らしい無名の画家の作品をお持ちだとか」
 目を細めたハンノがうなずくと、エアーズは笑顔を浮かべる。裏表などないと念を押しているようだった。
「よろしければ、その絵を見せていただけませんか?」
「構いません」と素っ気ない態度で答えたハンノはエアーズと二人で家に入った。廊下を歩きながら
「朝食は済ませましたか?」と尋ねると、エアーズは柔和な笑みを浮かべる。
「朝食は食べないものですから。リーヴァスさんは済ませましたか?」
「いいえ、まだです」
「では、朝食をご一緒させていただいでも?」
「構いません」

 テーブルにはレタスと細く切った玉ねぎのサラダ、ソーセージが添えられたスクランブルエッグが手際よく並べられた。エアーズがフォークでソーセージを突き刺すと薄皮から肉汁が溢れ出す。
「私や妻よりもお上手なので、頭が下がりますね」
「エアーズさんは結婚されているのですか?」
「五年前にね。笑っていただけると気が楽ですが、今では妻が上司です。とはいえ、私はデスクワークに向かないので、これで良いのかも知れません。リーヴァスさん、ご結婚は?」
 ハンノは手をヒラつかせ「この通りです」と答える。すると、エアーズがうなずいた。
「芸術家は家庭に向きませんからね」
「私は修復士です。芸術家ではありません」
「失礼」
 エアーズはソーセージを口に入れて嚥下すると目をぱちくりさせる。
「とても美味しいソーセージですね。リーヴァスさんの自家製ですか?」「ハンノで構いません。ソーセージは市販のものです。どこにでも売っていると思います」
 エアーズがこれまでよりも親しげな声で「ありがとう、ハンノ。今度、探してみるよ」と言った。それから、エアーズは昨今のアート業界について一時間ほど語った。マーク・ロスコやバーネット・ニューマン、ジャクソン・ポロックといった画家はもちろんのこと、ジョン・ケージやサミュエル・ベケットといった音楽家、作家についても。エアーズの語り口は斜に構えたところが感じられたものの、概ね共感できるものだった。会話が途切れると二人はコーヒーを飲んだ。エアーズが言う。
「こんなことを言って良いのかはわからないけれど……アートは収縮すると思う。ウォーホルのしていることは終わりの鐘みたいに感じられるよ」
 ハンノは口を開き、きっぱりと言い放つ。
「アートは終わりません。たとえ、私たちがいなくなったとしても」
 朝食を終えたハンノは物置部屋からエリヤ・ウルマニスの作品をもってきて、以前と同じ場所に絵をかけた。絵を見つめるエアーズは何も言わない。やがて、エアーズは腰に手をやりながら小さく溜息をついた。
「写真を撮っても?」
「どうぞ」
 エアーズのシャッターを切る音がハンノのまばたきと重なる。写真を撮り終えたエアーズは満足げな笑みを浮かべ「ありがとう」と言った。
「その写真は掲載するのですか?」
 エアーズは額に手をやり
「わからないね。上が決めることだから。掲載したら送るかい?」
 エアーズの声ははじめの頃とは打って変わって、幾分、ぶっきらぼうに感じられたが、飾り気のない調子がエアーズに合っていると感じたので、ハンノは「いりません」と、ざっくばらんな調子で答えた。それから、二人は握手を交わした。

 エアーズの妻で『アート・ディスカバリー』編集長であるアルタが現像された写真を見た時、噛みつきそうな顔でエアーズを睨んだ。「怖い顔をして、どうしたんだい?」とエアーズ。アルタは栗色の長い髪を一撫でした。彼女が着ている黒いタートルネックは肉体の線を強調しているように感じられる。
「ヘイジ、何か感じない?」
 エアーズが「綺麗な髪だね」と答える。アルタはエアーズが答えに困ると他愛もないことを口にする悪癖があることを熟知しているので、無視を決め込む。
「これがあなたの好みじゃないことはわかる。古臭いと感じているのでしょう?」
「そうだね。古臭い。実際、修復屋も押し入れから出してきたし」
 写真の縁を指でなぞったアルタが言う。
「新しさや古さだけでは本質を見失うわよ?」
「どうだろう? でも、編集長が決めたことだ。従うよ」
「そういう言い草ってないんじゃないかしら?」
 エアーズはしまったと思ったが、時すでに遅し。アルタの言葉が火のような速度で繰り出されていく。一〇分ほどお叱りの言葉を聞いたエアーズが
「君を侮辱したかったわけじゃないんだ。すまないと思っている。お詫びに夕食をおごるよ」と言うと、アルタの態度が和らいだ。自身のデスクに戻ったエアーズはため息をつくなり
「まったく、人騒がせなラトビア人だ」と言った。翌月の『アート・ディスカバリー』には見開きでエリヤ・ウルマニスの作品が掲載された。

 サンディエゴの絵画収集家、トーマス・ブルフィンチは震える手でダイヤルを回し、ロイズ・リーに電話する。社交辞令すら忘れたトーマス・ブルフィンチが早口で言う。
「これで、あの絵の価値は跳ね上がったぞ。どうしてあの時、一〇万ドルまで上げなかった? あの修復屋だって一〇万ドルなら首を縦に振ったはずだ。聞いているか? 私たちは馬鹿をやったんだ」
「責めなくたっていいだろう?」
「責めずにいられるか。あの忌々しい若造は吹っ掛けてくるに違いない。修復屋風情が!」
「彼は修復士で、それだけだ。世情に疎そうだし、何度か会いに行けば気が変わるかも知れない」
「ありえない」
 リーが「そんなこと」と言うと、ブルフィンチが遮り
「こんな屈辱、ユウゾウ・サエキの贋作をつかまされた時以来だ。あの時も君が私たちを呼んだんだ。忘れたとは言わせないぞ」
 リーは声を詰まらせ
「あの件は、すまなかったと思っている……でも、あの贋作は良くできていたじゃないか?」
「贋作は贋作だ。まがいものに価値はない。それから……次の品評会、君は除名だ。二人とも賛成した。こんな屈辱、許せるはずがない」
 無慈悲な機械音を聞きながら受話器を置いたリーは膝に手を置き、大きなため息をついた。

 アルタのデスクは朝から電話が鳴り響いている。彼女の脳裏に電話線を引き抜くことが過ったことは、夫がフェルメールの贋作を新作だと書いてしまった時以来のことだ。目の前で腰掛けるエアーズが鳴りっぱなしの受話器を指差し
「出たほうがいいんじゃないかな? 嬉しい悲鳴だよ」と言い、アルタは怒った目つきでエアーズを睨み、受話器を手にとる。
「もしもし? ロッテンバーグさん? えぇ。その人物については取材中です。次号でもう一度、記事にします……購入? 生憎ですけれど、あの作品は個人蔵ですの。持ち主については、プライバシーがありますので。えぇ……本当に残念です。代わりといってはなんですが、コレクションを取材させていただけませんか? えぇ、そう……残念です。ロスに立ち寄られるようでしたら、是非、ランチを」
 アルタが受話器を置くなり、エアーズが口を開く。
「今の電話、フィリップ・ロッテンバーグかい?」
「えぇ」
「大富豪で、コレクターで、けちん坊のヒヒ爺も、まさか、旦那の前で口説いたなんて夢にも思わないだろうね」
「そういう言い方、やめて」
 再び電話が鳴り響く。アルタがうんざりした顔をしていると、エアーズが言う。
「それじゃあ、お暇するよ」
「逃げる気?」
「取材に行ってくる。リーヴァスは変人だし、骨が折れるだろうけど、関係を作らなくちゃ。帰ったらゆっくり話そう。つづきはワンの店で揚げ物を突きながら聞くよ」
 アルタは突き立てた親指で喉を切り裂く真似をした。エアーズが
「まぁ、頑張って」と言って出て行くと、アルタは受話器を手にとった。エアーズが廊下を歩いていると校正担当のオルハン・ツヴァイクとすれ違った。オルハンは急いでいる様子だったが、エアーズはのんびりした口調で「どうしたんだい? 君もラトビア人の件で首が回らないのかい?」
 憔悴した顔のオルハンが
「え? あぁ、そうだね。たしかに忙しい気がする」
「気がかりなことでも?」
 声を落としたオルハンが「アイリーンが電話に出ないんだ」
「散歩にでも行ったんじゃないかな?」
「赤ん坊が今にも生まれそうだっていうのに? あぁ、陣痛がきていたらどうしよう?」
 エアーズはやれやれといった顔で「気にしても仕方ないよ」と言った。

 ハンノの工房にゲティ美術館時代の元同僚、カエターノ・ファビオがふらりとやってきたのは昼過ぎのことだった。ハンノは突然やってきては世間話や自慢を並び立てる訪問客が大嫌いだが、ファビオはそういった連中と異なる。二人は同い年で、同じ年にポール・ゲティ美術館で働きはじめた。二人とも優秀だったが、ハンノが修復士としての腕前を人々に届けたいと考えたのに対し、ファビオは自身の発想、技術、才能を世に知らしめたいと考えた。結果的に二人とも同じ時期にゲティ美術館を退職した。ファビオはロサンゼルスから車で四時間ほど走らせたメキシコのティフアナでアトリエを構えている。ファビオの画風は多岐に渡る。彼は西洋絵画史を頭頂から指先まで理解しているのだ。技巧的であることは当然のことながら、彼はそれより先を見ている。つまり、頭頂から指先まで理解している絵画と逆のことを表現しようとしている。ファビオが言う。
「おれは誰も知らないことをやろうとしている。それは頭の中にある。空白になっている箇所だ。間違いない。誰かに似ているなんて言わせない。言わせてやるものか」
 ファビオがテーブルに『アート・ディスカバリー』を放った。開かれたページは何度も触られたらしく、皺が寄っている。
「こいつはエリヤ・ウルマニスというそうだ。もう死んでいるらしいが。そこはどうでもいい。ここからが重要だ。こいつはおれの記憶にない。つまり、見たことがない」
 ファビオは大きく息を吸い込み、一気に吐き出す。
「忌々しい野郎だ。おれを出し抜きやがった。わかるか? こいつはおれと同じことをやりやがったんだ。それも……おれより先に」
「気にすることない。君は君だ」
「気にするな? 馬鹿言うな」
 ファビオは手を振り上げ「悪い……おまえに怒鳴ったって仕方がない。おれの問題だしな」
 苦笑いを浮かべたファビオが立ち上がり
「誰かに言わなきゃ、おさまりがつかなかった。本当なら、さっさと絵筆をとるべきなんだ。四時間もドライブしている暇なんてあるはずがない」と言って、髪の毛を掻きむしると、矢のように飛び出していった。ハンノは窓から車に乗り込むファビオに手を振ったものの、ファビオはハンノを見ていない。それから、間もなくエアーズがやってきた。依頼された修復の仕事をしようとしていたハンノは心の中で舌打ちする。テーブルに放られたままの『アート・ディスカバリー』を見たエアーズは長年の友人のような顔で微笑む。
「素晴らしい才能の持ち主だ。無名のまま、誰にも知られずにいたなんて残念でならないよ」
「どういう意味でしょう?」
「ウルマニスの絵を掲載してから、デスクの電話が鳴りっぱなしでね。編集長はまいっているんだ。一つ提案したい。君が見せてくれた絵、あれを競売にかけないか? あれほどの才能の持ち主を、気を悪くされたら謝るが、君だけのものにしておくのはもったいないと思うんだ」
 ハンノが口を開いて断りの言葉を発しようとすると、エアーズが言う。
「まだ見ぬ誰か、より多くの人たちにエリヤ・ウルマニスの才能を知らしめよう」
 エアーズが帰るなり、ハンノは頭を抱えた。修復の仕事は手につかなかった。夜になると、ハンノはエアーズのデスクに電話を掛けた。

 すべてが火のように過ぎ去っていく。競売所では絵画愛好家たちがデッドヒートを繰り広げ、ロイズ・リーとトーマス・ブルフィンチたち、かつては友人だった四人が金額を叫ぶ。大富豪のフィリップ・ローゼンバーグは電話越しに酸素吸入器で曇った息を切らせながら金額を叫ぶ。二〇万ドルで競り落とされたことを知ったハンノは有頂天だった。これまでのすべてが繋がり、報われたような気持ちだった。

 椅子に腰掛けた彼はラトビア語の辞書を手にとる。小一時間ほど経つと、今度はロシア語とリヴォニア語の辞書を交互に見つめる。テーブルの上に置かれたコップにはドロドロに溶けたヨーグルトが並々と入っている。修復を依頼する手紙は封を切られることなく、広告と一緒にゴミ箱に放られた。ハンノは絵筆を手にとる。瀝青がキャンパスに放たれ、朱色がヘビのようにとぐろを巻く。黒の中に水色が放たれ、暗色が飽和する。情念は情念によって上塗りされて別の顔になる。キャンバスの中ではリヴォニア帯剣騎士が歪み、苦悶の表情を浮かべている。彼は大きく息を吐き、手を止める。ラトビア語で何かつぶやくと、昼食は冷えたビートスープと煮込みキャベツにしようと決める。そして、行ったこともないリガを恋しく思う。誰がハンノ・リーヴァスを殺したのか? ロイズ・リーだろうか? トーマス・ブルフィンチ? ヘイデン・エアーズ? カエターノ・ファビオ? 競売所の受話器に向かって金額を叫んだ人々? 金額を決定した無慈悲な主なき木槌? あるいは、彼自身? 非凡な修復士、ハンノ・リーヴァスはもういない。ポール・ゲティ美術館にほど近いアーモンドの木に囲まれた一軒家に住むのは純粋無垢の滴。


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