[読書ログ]「やさしい大おとこ」

作・絵: ルイス・スロボドキン
訳: こみや ゆう
出版社: 徳間書店

あらすじ

むかし、山の上にすむ大おとこが、
ふもとの村の人たちと友だちになりたい、と思っていました。
でも、声が大きすぎて、村人たちには聞きとれません。
それを利用して、悪いまほう使いが村人から食べものをとりあげていました。
ところがある日、ひとりの女の子が、大おとこが本当は心がやさしいとぐうぜん知り…?
挿絵いっぱいの楽しい幼年童話。


感想

わたしはルイス・スロボドキンのファンである。
今でいえば、推しというやつだ。
図書館中のスロボドキンの話を借りて来ようと思うきっかけになった本作。
イラストも可愛らしく、幼年絵本らしい優しいタッチで描かれている雰囲気が好きだが、絵だけでなく、物語も面白い。

話は、昔話の構造で、語り口調で書いた文章で書かれている。
 
民話らしい山の上の大おとこというモチーフ、大おとこのことを知ろうとしないせいで勘違いし続ける村人、その勘違いを利用して悪事を働く大どろぼうという3つの関係性に、突然登場する少女によって、物語が動いていく。
最終的には、大どろぼうをこらしめる勧善懲悪パターンを用いた、王道ストーリーだ。

王道の良さは、安心感。
よくあるモチーフを使いながら、最後はスカッとして、楽しく終わる。
なんとなくそれを予感させられながら、読み進めるから、安心して読める。
この安心感の下地が大事。
そのうえで、少女が大おとこの性格を知るきっかけになる出来事や、大どろぼうの描写、少女が大おとこについて大人に説明する様子や、その後の大人たちの行動、それぞれがひとひねりあるエピソードを入れ込んでいるので、飽きがない。

ひとひねりあると感じたエピソードを一部抜粋する。


シーン1。
魔法使い(実は大どろぼう)が大おとこの声を聞いていて、村人たちに大おとこの言葉を伝えるシーン。

「あのみにくい大おとこは、また食べ物をほしがっておる。こんどは、二百十、いや、二百十九だったかな……ちょっとまて。やつがいった、せいかくな数をノートにかきとめたから……(中略)
いつもどおり、つぎの火よう日のあさ、山のちゅうふくまで、すなわち、山をすこしのぼったところの、ひらけた草原まで、はこんでくるように」
村人たちはどうしたものかと、かおをみあわせました。
 
さて、大おとこにとって、火よう日は、とてもいそがしい日で、おしろからでるひまは、ぜんぜんありませんでした。
大おとこには、おくさんや、かぞくがいなかったので、家のことを、ぜんぶじぶんひとりでしなければならなかったからです。
(中略)
ですから、大おとこは、火よう日のあさ、村人たちが、びくびくしながら山のちゅうふくまで食べものをはこんできているとは、つゆほどもしりませんでした。
わるいまほう使いは、大おとこの一週間のよていを、ちゃんとしらべていたのです。
そして、よるになり、村人たちがねむりにつくと、まほう使いは手下をつれて(手下はみな、元どろぼうや元海ぞく、それから元山ぞくでした)山のちゅうふくの草原までいき、村人たちがはこんできた食べものをひみつのどうくつにかくすと、ぜんぶ、じぶんたちのものにしていました。

文章のなかで、まほう使いが嘘をついていることが分かるエピソード。
読みながら、まほう使いが悪いことをしていると気づけること、大おとこは何も知らないこと、村人は勘違いしたままであることなど、それぞれの立場が分かるワンエピソードで上手い。

 
シーン2。
少女グエンドリンが落ちてしまう井戸の描写。

この井戸は、ずいぶんまえから水がかれていました。まだ水があったころをおぼえているのは、村でいちばん年よりの、グエンドリンのおじいさんだけでした。
おじいさんは、よく、
「そう、あの井戸がかれたのは、ついこないだの夏じゃった」とか、
「ええと、あれは三年前の冬じゃった。井戸がかれてしまったのは」などといっていましたが、とにかく水がかれてしまってからしばらくしたあと、井戸は、なんまいかの板で、ふたがされました。
というのも、水がかれたあと、たくさんの子どもが、ふざけてあそんで井戸におち、おとなたちは、そのたびに、たすけださなけてはならなかったからです。
ふたがされてからは、子どもたちが井戸のうえで<バラの輪をつくろう>をやっても、<大将ごっこ>をしても、井戸におちることはありませんでした。

チャーミングなおじいさんの人柄が分かる描写と、井戸にふたがされた理由、ふたがされたあとの描写が可愛らしい。
ここまでふたに言及しなくても良さそうだが、ここが作家の味。想像力を掻き立てる描写で一気にリアリティが生まれている。



シーン3。
グエンドリンが大おとこから聞いたことをおじいさんに伝え、その後、おじいさんが村長へ伝えるシーン。

おじいさんは、さっそくグエンドリンの話をつたえました。
「それで、グエンドリンは、大おとこはなにもいらないと、いらないどころか、むしろくれるといった、というんだね?」
村長は、すこしおどろいたようなかおで、ききました。
「そのとおりじゃ」
と、おじいさんはこたえました。
「それで、なにをくれるって?」
「むらさき色のパンジーじゃ」
「むらさき色のパンジーだって?」
村長は、おもわずふきだして、かなとこにこしをおろしました。
「お花のパンジー! はっはっはっ!」
村長は、わらってわらって、なみだがこぼれおちるほどわらいころげました。
おじいさんは、ちょっとまごついてしまいましたが、しだいにはらがたってきました。
「そうじゃとも!『むらさき色のパンジー』と、大おとこは、いったんじゃ!」
(中略)
「まあ、そうおこらんでくれ。ここんとこ、たのしいことなんて、とんとなかったが、ひさしぶりにおおわらいできたよ。さあ、まじめにやろう。グエンドリンは、大おとこがなんといった、といったんだね?」
「だから、パンジーをくれる、といったろう!」

むらさき色のパンジーを3回も言わせる、コメディでは鉄板の手法。
おじいさんがグエンドリンの話を信じて、必死になって説明してくれている優しさが表現されているのも良い。



シーン4。
最後に村人と大おとこがパーティーをするシーン。(ハロウィンの日が、グエンドリンの誕生日のため、大おとこが誕生日会をしようとしてケーキを焼いてきた)

村の子どもたちは、ハロウィンの仮装をしてさんかしました。
男の子のかっこうをしている女の子もいれば、女の子のかっこうをしている男の子もいました。小鬼やまじょにへんそうしている子や、くろねこやかぼちゃにへんそうしている子もいました。
でも、だれも、まほう使いにだけは、なりませんでした。
子どもたちは、おなかいっぱい食べ、大おとこといっしょにたくさんゲームをしてあそびました。それから、なんどもなんども、ハッピーバースデイのうたをうたいました。
かえるじかんになって、山をおりるときも、子どもたちは、ずっとうたっていました。

楽しいシーンの描写。まほう使いが大どろぼうだったので、誰もまほう使いに仮装しなかった、というのがポイント。ここで、まほう使いというモチーフを活かしてくるか、と唸る。
なんどもなんども、うたをうたうのも良い。楽しさや、解放感の演出にもなるし、何度もうたうことでもっと深い意味合いがあるようにも感じてくる。たとえば、悪いやつに支配されて困窮していた村が解放されて、あたらしい村の誕生を祝っているようにもとれる。


短い話の場合は特に、ワンエピソードの重要性を感じる。
登場人物の人となりを説明するエピソード。
物語で使われる道具や、場所にまつわるエピソード。
ごちゃごちゃたくさん書きたくなるけど、印象的な1つだけを書いて、話をコンパクトにする。
印象的な1つを選ぶのが作家の技術であり、センスだと思う。
このセンスの磨き方は、やっぱりたくさんの物語に触れ、たくさんの物語を書くことでしか養われない気がする。
 
スロボドキンの良さは、ユーモアあるエピソードが含まれていること、エピソードの選定がうまいこと、楽しさの表現が可愛らしくて、読後感の満足度が高いことがあると思う。
 

とりあえず、言いたいことは、ルイス・スロボドキン(フローレンス・スロボドキンも)、今のところ、最推しである。




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