6月に読んだ絵本3冊ーマクフェイル・ウンゲラー・スタイグー
6月という季節とはまったく関係ないし、もう時は7月だけれど、絵本の読書ログを残しておく。どの時期にどういう絵本が気になって手に取ったかとか、あとから見返せば何か気づきがあるかもしれない。
今回の記事では、海外作家に限定して3冊。
デイビッド・マクフェイル、トミー・ウンゲラー、ウィリアム・スタイグ。
どれも最高の作家である。
「もぐらのバイオリン」
作・絵: デイビッド・マクフェイル
訳: 野中 ともそ
出版社: ポプラ社
あらすじ
地面の下で一匹のもぐらが暮らしていた。楽しいけれど、物足りない生活のなかで、テレビで聞いた音楽に心を捕らわれて、バイオリンを弾くようになる。地面の下で毎日バイオリンを練習しながら、たくさんの人の心を動かすことを夢見て空想しているもぐらだが、実はもぐらは気づいていないけれど、もぐらのバイオリンの音色は、もぐらの住まいのすぐ上に生えている大木を通じて、外に聞こえていて……という話。
感想
この物語は絵によって読者ははじめから気づいていることを、もぐらは最後まで気づかないという点の面白さにある。
絵では、上半分が地上の様子を、下半分が地下の様子を描いており、読者にはどちらの状況も分かるように描かれているからだ。地上の動物や人間は、地下にもぐらがいることを知らないし、もぐらは地上で動物や人々が自分の音楽を聴いていることを知らない。
それを、誰にもバイオリンを聴いてもらえず可哀そうだと取るのか、実は本人が知らないうちに、自分の奏でる音楽によってたくさんの人たちを幸せにしていたことを感動的と取るのか。
強いメッセージ性や、作者の視点はうまく隠されており、読み方が読者にゆだねられているところがまたいい。
誰に褒められたり、他人から認められなくても、自分を豊かに満たしてくれるものが、もぐらにとっては音楽だった。他者からの承認や評価よりも、自分がどう感じるかを重んじることがテーマになっているような気がする。
もぐらは自分の音楽をたくさんのひとたちに聞いて欲しいと夢見ながら、毎日バイオリンの練習をしているので、地上で起きている出来事は、もしかするともぐらの空想ではないか、という見方をしている人もいたが、わたしは空想とは読まなかった。
もぐらの住まいと地上を繋ぐ役目として、大きな木が描かれている。
根の一部は、もぐらの家の天井にぶらりと垂れ下がっていて、枝や葉は地上で大きく広がっている。木が地下と地上を繋ぐオーディオの役割を果たしているのが表紙からも分かるからだ。
内容的には日本的な感覚だと感じたが、作者はアメリカマサチューセッツ出身。これもまた良い。
「アルメット」
作: トミー・ウンゲラー
訳: 谷川 俊太郎
出版社: 好学社
あらすじ
感想
『すてきな三にんぐみ』の著者として有名なトミー・ウンゲラーの作品に、谷川俊太郎さんの訳。最高である。
独特の絵がブラックユーモアやシニカルさをイメージさせる。
ティム・バートンが好きなわたしは、絵と表紙絵だけですでに虜になった。
内容も、「マッチ売りの少女」のような主人公の設定や、そのテーマ性などからアンデルセン文学の系譜を継いでいるような雰囲気がある。
アンデルセンは、その生い立ちからも、弱者を主人公に据えることが多かった。弱者からみた世の中のほうがより真実をついているためだ。一方で、上層志向の強い人間については徹底的に批判して描いている。
アンデルセンは自身の体験を少しアレンジして物語を書く傾向があり、自身の経験から作った話に「あの女はろくでなし」がある。
これは、貧しいがゆえに富裕層たちの洗濯物を請け負う仕事をしていたなかで、冬でも冷たい水で洗うので、冷えきった手を温めるために昼間から酒を飲む母を、他人はその事情を知らず、先入観だけで昼から酒を飲むろくでなしだと言ったことからきている。
子どもの眼を借りた、大人の予断偏見に対する文学での抵抗が、アンデルセン文学の特徴といえるのだが、この雰囲気が、本書にも強くみられる。
幸せいっぱいの物語ではないが、不幸まっしぐらの物語でもない。
一度では足りない。何度か読んではじめて胸の中でじわじわと広がっていくように響いてくるような風刺のきいた物語。
風刺のきいた絵本は、綺麗事でストーリーを片付けると白けてしまいがちだし、バッドエンドで締めると狙いすぎていて面白みがない。この絶妙なバランスの上で、本書は完成されている。
谷川さんによる、絶妙なリズムで訳された文章が、静かに大人の胸にも語り掛け、子どもの胸にも迫ってくる。
もっともっと、読まれて欲しいすばらしい絵本。
「ものいうほね」
作・絵: ウィリアム・スタイグ
訳: せた ていじ
出版社: 評論社
あらすじ
ぶたの少女パールは森のなかで、魔女が落とした、喋るほねをひろう。
パールはほねをバックにいれ、楽しく話をしながらかえるとちゅう、おいはぎや、きつねに捕まってしまう。きつねに食べられそうになったとき、ほねが何かを喋り出して……というお話。
感想
森で出会ったのが、”骨”という、なんともシュールな設定。
ぶたとほねは仲良くなり、おしゃべりをしながら、次々とやってくるトラブルや困難に立ち向かい、なんとか家に帰るという物語としてはシンプルな構造ながら、”ほね”のインパクトによって個性が出ている面白い作品。
ぶたの主人公が、きつねに食べられそうになるのは、よくある民話の典型だが、どんな国の言葉も、音も、口に出せる設定がよく生かされている。
とにかく、どうして”ほね”? ”ほね”である意味がある?
とも思うのだが、物語がきっちり抜け目なく構成されていて、お手本のようなつくりをしているので、まあそんなことはどうでもいいか、と思わされてしまう。
個人的に印象的だったのは、ほねと初めて話をするとき、自分は神様ではないと話すシーン。
ほねは、話が出来るけれど、万物を創造した神ではない。なにか”不思議な存在”としての立ち位置を説明する言葉として面白い表現だと思った。
スタイグの味のある絵が、主人公パールのおっとりした雰囲気にぴったりだし、きつねもパールを食べる罪悪感を持ちながら襲うところに愛嬌を感じさせる。
可愛らしくて、面白い。さすが。