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[雑記]なぜ公募に出すのか

童話と絵本のグランプリ、グリム童話賞への応募が完了し、今年の公募がひと段落して、来年に向けて長編のプロットを書き始めている。

またあたらしいスタート。
この機会に再度、童話や小説を公募に出すことについて、考えてみた。

公募にいくつか出したはいいものの、結果的にどうなりたいんだろうということを、あれこれと考えてみたのでここに残しておこうと思う。

※これはあくまで自分の場合なので、誰かに強要したり、こうであるべきという主張ではないです。
あと、もし本記事を読んで下さる方がいるのなら、申し訳ないくらい長いです。ご注意ください。


なぜ公募に出すのか?
作家になりたいから、デビューしたいから、という方が多いと思う。
 
作家、とりわけ児童文学作家(この呼び方も他に代わるようなものがないものかと思うけれど)というのは、児童文学作品を創作する人(制作者)のことだから、自分が児童文学作家だと名乗れば、それはもう立派な作家である、といえると思っている。
その点で、ひとくちに作家と言っても、様々なかたちがある。

けれど、一般的に児童文学作家になる、というと、商業作家としてデビューした状態をいうことが多い。

自分は、商業作家になりたいから公募に出すのだろうか?
商業作家になりたいなら、公募以外にも道がないのか、改めて調べて他の可能性も模索しながらチャレンジしていく必要がある。
 
たとえば、この一年で商業作家になった人は、公募で大賞を受賞した人だけなのだろうか。
必ずしも、そうではないはずだ。
 
それこそ、今はSNSに掲載してデビューすることだってあるし、映画化することだってある。(漫画はそれが特に顕著)
 
多くの人の目に触れたいなら、動画配信とか、小説系のサイトへの投稿や、自費出版など、今は媒体が複数あるし、やり方はいくらでもある。

だけど、なんとなく自分にはフィットしない。

理由は、自分の創作物が広く一般に受け入れられて、面白いと言われるような作風ではないことがひとつある。

そのために、金銭の絡む需要と供給のなかで、需要に積極的に応えられるのかというと、それは自分がだいぶ無理をしている状態のように思う。
(今の自分にはその能力がないだけで、将来的には無理しなくても出来るのかもしれないけれど)

でも今現在の自分で考えて、あちこちに作品を出してみたり、商業作家になるためのアプローチに尽力していくと、自分のやりたかったことって本当にこれだったんだっけ、なんて思うかもしれない。

じゃあ、書くことで本当にやりたい、成し遂げたいことってなんだろう。
 

まず、自分の人生の時間を出来るだけ書くことに費やしていきたい、というのが前提にある。
 
書くことが楽しい。
だから、書き続けたい。表現し続けたい。

書き続けていくことが、表現し続けていくことが、好きだ。


これが、欲求として圧倒的に強い。
書いていない日があると不安になってくるくらいだ。
がむしゃらに働いていた昨年までは、まったく書いていなかったので無意識的な不安が大きかった。
      
だけど、書くだけでいいなら、発表せずに自分のためだけに書き続ける、という方法もある。
 
しかし、これもなんとなくフィットしない。


書いたものの質を高めたい欲求がある。
より良い物語を作りたい。それには他人に読んでもらう必要がある。
他人に読んでもらって批評をもらい、さらに高みを目指すには公募や添削、スクールが手っ取り早い。
  
書いている人で、批評はNGという方が時々いらっしゃるが、自分は逆で、作品を高められるなら、いろんな意見が欲しい人間だ。
言い方がキツイとそりゃ凹むけれど、自分を客観的に見るためには他人の眼は絶対必要だから、読んでもらえたなら、良いところと悪いところ両方知りたい。
 

だけど、そんな綺麗事ばかりではない。
誰かに読んでもらって、評価してほしい。
誰かに読んでもらって、認められたいという願望もある。良い作品だったと言って欲しい。
なおかつ、思春期の子の心を動かせる何かがあれば、最高だ。

表彰状もうれしいけど、賞金もあるのはうれしい。
これも本音。

全員に届かなくていい。
届く人に届けたい。そんな気持ちもある。
 

総じてみると、公募は、たくさんの達人が終結する天下一武道会。
そこで認められたい。評価されたい。
そういう気持ちで、公募に応募しているのだと気づいた。


だから公募で評価されるのがゴールではない。

自分が書いた文学が、どの程度の質なのか見定めたいがために、あるいは自分の文学と信じるものが世間にどれほど受け入れられるのか知るために、公募に出している。

それはそれで大事だけれど、自分にとって一番大事なのは、死ぬまで出来るだけ長く多くの時間を書くことに費やせる人生を送ること。

そのなかでひとつでも、自分自身で「これだ!」と思える作品が出来たらいいなと思う。

その過程でもし、自分の「面白い」が他人の琴線に引っかかったり、誰かの人の心を動かして、それでお金がもらえるなら、それほどうれしいことはない。


だから、自分は公募に出すことで作家になりたいのがゴールではなくて、
「(書くという表現方法を使って)己の文学で自他ともに認められ続けたい」がより正確な欲求だった。

 
 
ではなぜ、児童文学なのか、と言えば、自分の書いている文体、対象年齢が児童文学向きだったことが大きい。

あとは、幼かった自分に向けて書いている節もあるので、自然とYA周辺のあたりに落ち着いた、というのがある。

そんなわけで、プロフィールの文言を修正した。
このnoteのアカウントは、「作家になるまでのアカウント」ではなくて、「書き続けていくためのアカウント」という意味合いに変更した。

今を精いっぱい生きている方からすれば、ひどく甘えた人間に感じるだろう。自己の欲求のために、ガツガツ働かずに創作してばかりしているのだから。
堕落した、自由気ままに生きたいだけの人間に映るだろう。
でも、これが今の本心だ。
 
それに、書いている人は少なからず、一般的な生活を窮屈に感じている人たちなんじゃないのかな。一般的ではないから、文学に向き合おうとするんじゃないのかな。人並みの幸福が欲しい人は、こんなある種マゾヒズムのような道を目指したりしないんじゃないかな。

上記の話も、書き続けていくなかで、考え方が変わるかもしれないけれど、今の時点の自分の感覚はこうだということで、noteに残しておく。


noteで書いている公募勢の方々も、それぞれに公募に挑戦している理由があると思う。ぜひ他の方の理由も聞いてみたい。


  
最後に、「将来的にどうなりたいか具体的に、解像度を上げて考えてみましょう」とか、「具体的に考えていったら、それを成し遂げるためのアクションも一緒に考えましょう」とかはよく聞く言葉だ。

具体的に解像度をあげて、将来なりたい姿について考えるのは、実は結構むずかしいんじゃないかと思っている。

今書くのが楽しくて、それをずっと続けたくて、でも何かになりたいわけじゃない。今ある具体的なポジションを目指すイメージはない。
だけど、世間体もあるから何かを目指したほうがいいと思うこともある。

人生は地続きだ。
今の延長線上に未来がある。過去の延長線上にしか今は存在しない。
それなら、今を続けていくことで訪れる未来が、なりたい姿なのかもしれない。

そんなことを毎日あれこれと考えながら、今日もまた書いている。
書き続ける今を肯定し続けるなかで見える未来が、今は結構楽しみである。

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