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[読書ログ]「君色パレット いつも側にいるあの人」

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著: 小手鞠 るい、いとう みく、高田 由紀子、光用千春
絵: 佳奈
出版社: 岩崎書店


あらすじ

近所の同級生、昔からの幼馴染、お父さんの恋人、二人のお母さん。
多様性をテーマに『いつも側にいる人』を描く4つの物語。

あの人のこと、そして自分自身のこと。物語を「君色」でみつめて。
多様性をテーマに主人公と様々な距離間の人たちとの物語を収録したアンソロジー。(絵本ナビより)


感想

Twitterで見かけて気になった本。
シリーズで三冊出ているものの一冊。
今をときめく作家たちのアンソロジーということで、どれもテーマに沿った痺れる作品ばかりだった。
 
しかし、編集の仕方なのか、自分にはちょっと合わなかった。
書き手の方々の力量はすばらしいのは前提として、反面、テーマに対して、一編あたりのボリュームが短すぎるように感じた。そのせいで、きれいにまとまりすぎて、登場人物に人間臭さのようなものがなく、物足りなかった。
そういうわけで、この読書ログは下書きのままにしていた。
けれど、感じたものは感じたものとして事実だから、読んだものは残しておこうと思い、あえて記事を公開することにする。


「姫のゆびさき」高田由紀子

先天性四肢障害の咲姫と主人公のおれ(名前が出てこない気がする)がネイルを通じて多様性に向き合う話。
お話の最後に一文、伝えたいテーマが描かれている。
この話は、「得意なこととか好きなことが違うだけ。」という文言。

難しいテーマに向き合っているお話。
四肢障害(咲姫の場合は右手指)の咲姫がネイルをしてもらっている間に弱音を吐いてみたり、きれいに出来上がったネイルに喜ぶ姿をみて、男子がネイルをしてもいいのかも、と思い直す主人公。

モチーフの組み合わせが、ストーリー進行に必要なパーツを集めた感じがしてしまって(こんなに都合よく行くかな?と思ってしまった)、そこが少し気になったけれど、難しいテーマを爽やかに描き切っていてとってもいい。

歩いて五歩のところに住む、幼なじみの関係性だから、より爽やかに感じられる。読後感もいい。


「落っこちそう」光用千春

小学校の卒業前に何かやろうと言って、男子だけで危険なチキンレースをする。丘の上の公園で崖っぷちに石を置いて帰ってくるというもの。
運動神経の悪い春男は崖で足を滑らせて、落っこちそうと言って、落ちてしまうところを運動神経の良いタケシが助ける。

少年時代のよくある危険な遊び。
子どもが成長するのは親のいないところで起こる出来事、というのは本当にそうだと思う。こういう遊びの中で、成長していくのだ。
親としてはハラハラドキドキ、子どもとしてもその遊びの内容によってはのちのちまで心に傷も作ってしまうものだが。

この話の良いところは最後の五行。
これがグッとくる。
ここまでそんな話を全然出してこなかったのに、最後にこれか、という。
そして、読み終わった後にもう一度タイトルを読み直して、うん、良いと唸る。

何にも言っていないのに、伝わってくるこの感じが好きだ。
いいなあ、いいなあと思いながら読んだ。
 
でも、側にいる人との関係を意識したり、理解しようとしたりするような心の動きが物足りなくて、もう少し見たかったな、と思った。
隣にいて欲しいって気持ち悪いのに、なんでそんなこと思っちゃうんだろうとか。この気持ちって何なんだろうとか。
答えが出なくても、考え続ける話であって欲しかったというか。
これは完全にわたしの好みの問題だけれども。

この話は、「君の側にいるあの人は、どんな人?」という一文。


「本日のスペシャルディナー」小手鞠るい

分かりやすく多様性に切り込んだ作品。
小六の一華は、幼少期に母を亡くし、アメリカで翔太郎(ダディと呼ぶ一華の父親)と翔太郎のガールフレンドのオリヴィアと暮らしている。

オリヴィアは、動物愛護主義者で、菜食主義者。
オリヴィアの言葉がいい。

異文化、多様性のなかで生きている一華は、相手の考えを受け入れていく。


これはわたしの個人的な考えだが、ダイバーシティ&インクルージョンとは、「あなたはそうなんですね」というスタンスでいることで、要は”受け止める”の姿勢であって、「あなたの大事なものを同じように大事にします」という”受け入れる”ことではない、と思っている。

だから、一華は、家ではオリヴィアを尊重して菜食主義でいいけれど、鶏や豚を食べたくなくなるまではいかなくてよかったのでは、と感じた。そこまでいくと、受け入れないといけないのかな、という誤解が出てしまうように感じてしまった。

受け止めることと、同じように受け入れることは違う。
同じように理解して、受け入れることは難しいのだから、「正直よくわからないけれど、あなたがそう考えていることは尊重するし、否定しない」というのがあるべき姿のような気もする。。

最後の一文の「きっと家族って個性なんだ」の言葉はグッときた。
家族を個性ととらえるのは斬新だし、この言葉で救われる心もたくさんあるだろう。


「にじいろ」いとうみく

中学生の桧予は、お母さんが二人いる。
ママの和花と、ママより二歳年上のままのパートナーの志穂さん(カカと呼ばれる)。
ママとカカは同性愛者で「婦婦(ふうふ)」であり、桧予を育てている。

これもまた難しいテーマ。
難しさゆえに、ストーリーのなかで違和感をいくつか持ってしまった。

たとえば、血のつながった父親(和久田さん)が桧予の家(居酒屋)にやってくる。生まれて間もなく離婚して、一緒に暮らした記憶もないが、ふつうに話をする仲。
ママが、志穂さんのことが気になっていながら、和久田さんとの子どもを産む選択をしたのはなぜなのだろう。

桧予が、和久田さんにママと離婚した理由を聞くシーンがある。

和久田さんが、押し切って避妊なしのセックスをしたってことなのか?
それともママが、妥協で和久田さんと結婚しようと決意してやったことなのか?

桧予にはこの辺は関係ない(掘り下げなくていい)ことなんだと思うけれど、自分も性的マイノリティであるせいなのか、どうにも気になってしまう。

また、ママとカカの環境下で育った桧予は、「ヘンだ」と言われたり、学校では内緒にしているので運動会も保護者会もママひとりで来る。

少なからず、自分の家が「ヘンだ」と言われることへの不満や、抵抗があっていいはずだ。

思春期なわけで、ママと喧嘩したり、自分にもお父さんが欲しいと言ってみたり、逆にカカの存在を「ヘンだ」という相手にムカついたり。
そういったところがまったくないのが、気になった。
桧予にとっての普通の状況であっても、何かしら感じたり、考えたりするんじゃないのかなと。
ただ、そこは主題ではないから、省いても物語は成立するので、あえて書いてないのだろうと思う。

最後の一文は、「幸せって、だれかに決められるもんじゃない。だから自分で選ばないと」

この一文がピタッとはまる話だった。
 


数年後、読み返して何か違うことを感じるかもしれない。
今は読み解けてないところを、もっと違う角度からも読めるようになっているといいなと思う。

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