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[雑記]己の文学について考える

同じ歌手、アーティストのことを好きな人はたくさんいる。TwitterやSNSですぐに繋がりができる。なんなら、オフ会や、ライブ会場で挨拶さえすることもある。
好きな歌手が同じというだけで、自分が好きな共通の話題がひとつあるだけで、あっという間に仲良くなれる。

歌は素敵だ。たくさんのひとたちが共感しやすい。
短い詞に、音に、それぞれの個人の感情を乗せやすいからだ。
その時聞いていた音楽は、音楽を聞くだけでその時にタイムスリップできる。
そうやって歌は、思い出とともに自分の中に残っていく。
歌を思い出して、当時を懐かしがったり、当時を思い出して、歌を懐かしがったりすることができる。

音楽は、いまや、自分を構成する欠片のひとつになっている。
 

 
では、物語はどうか。
先日読んだ物語はすばらしかった。
面白く、よく考えて組み立てられていて、程よいバランスの上に成り立つ教科書のような物語だった。

けれど、わたしはこの物語をいつか思い出すことがあるだろうか。
この物語を読んでいた過去の自分を懐かしく感じたりするのだろうか。

自信がなかった。

けれど、文学なら、と思った。
文学なら、きっと思い出す。
何度も考えて、何度も自分なりの答えを探して、何度も発見があるだろうと思った。

文学の定義は人の数だけあると思う。
辞書だと、以下のように書いてある。
言語を用いた芸術作品、なるほどよくわからない。

ぶん‐がく【文学】 の解説
《6が原義》
1 思想や感情を、言語で表現した芸術作品。詩歌・小説・戯曲・随筆・評論など。文芸。「日記―」「外国―」
2 詩歌・小説・戯曲など文学作品を研究する学問。
3 自然科学・社会科学以外の学問。文芸学・哲学・史学・言語学など。「―部」
4 律令制で、有品の親王に経書を講授した官吏の職名。
5 江戸時代の諸藩の儒官。
6 学芸。学問。
「国に―盛んなれば、花の色を増し」〈謡・老松〉

                                                                                                  Google辞書より

己が文学であると信じたものが文学だというのが自分の考えだ。
もっと簡単にいえば、自分の場合は、人間の普遍的な情動を描き出した物語、と言い換えられるかもしれない。

例えば、ある大学教授から聞いたことがある。
科学の発達していない時代は、自然現象は大きな脅威であり、何かわけのわからないものとして存在する“他者“だった。
”他者”は自分ではないもの。完全には理解できないものだ。
自分と”他者”の間を埋めようとする、あるいは自分と”他者”を繋ぐために、人間は物語を作るようになった、ということらしい。
       
”他者”理解のために、物語が必要だったのと同じように、人間の普遍的なテーマやこころという不確かなものについて、何度も考えて、自分なりの解釈を探していける。そして、そのために何度も読み直すことに耐えうるのが、文学じゃないかと思う。
 

作品のなかで、普遍的なテーマについて読者に問いかけたり、突きつけたりするかもしれないし、あるいは深く読み解くことで顕在化するものかもしれない。
  
その普遍的なテーマの最たるものが、生と死だと言われているので、文学作品には、生と死にまつわる作品が多い印象はある。
(個人的には、生と死以外にも、人間にとって、個人にとって、普遍的で大事なテーマっていろいろあるよね、と思っているので、あんまり生と死について書きたいとは思わないのだけれど)


たとえば、芥川龍之介の羅生門。
小学生のころに読まされた羅生門の印象と、
中学生のころに読んだ羅生門の感想と、
高校生のころに読み返した羅生門への感情と、
大人になって読み直した羅生門に対する主観は、全然違う。

羅生門を通して描いた問いに、読み手である自分の答えが変わっていく。
これが文学だと思う。

文学のことを考えていると、改めて、自分は児童文学を書きたいと思った。
子が読み、親が読み、その親が読む、そういう物語を書いていきたいと思った。

たとえば、夜の電車の中で、黒い窓に写る自分の姿を見ながらぼんやりとしているときに、ふと思い出してもらえるような物語。

いつか誰かに思い出してもらえる物語。

 
誰かのなかに残る物語。
 

そういう物語を書き続けていく先に、何かしらの自分なりの答えが見えるといいなと思いながら、今日も黙々と書いていく。

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