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ロマンチック論

23:33頃、突然断捨離スイッチが入り物凄い勢いで物を捨てた。これまでの人生、何事も一心不乱に取り組んだ覚えなど殆ど無いが、この時は正に一心不乱。無。


今まで大事にしてきた物も、今見ると手放してもいっか、と思えてしまい少し虚しい気持ちになった。(例えば、学生時代に使っていた絵筆や可愛い柄のレターセット、お気に入りだった本など)


来月には知らない街で暮らしている。なんだかサバイバルな気持ちになってきたので、最低限生活していく為に必要な物があれば十分だな、といったストイックなスタンスにより、可愛い柄のレターセット達は45リットルのナイロン袋の中に入れられてしまった。

保育士時代に夜な夜な目を真っ赤にして作り上げた壁面製作や玩具、不織布の衣装達も今まで捨てられずにいたのだが、無くても生きていくことが出来るので廃棄した。さようなら私の努力。

物を捨てるのは非常に体力が要る。ひとつひとつが思い出とのお別れだ。大変疲れた。




気がつくと3:56

部屋の片隅には要らない認定をされてしまった思い出達がこんもりと寄り集まっている。煙草を吸う為にベランダに出たのだが、外があまりにも静かで驚いた。ライターの音でさえ家族を起こしてしまいそうな程の静けさ。涼しい夜、風と室外機の音が心地良かった。


私にとって夜のベランダは史上最強に神聖な場所である為、共用は許されない。スマートフォンの持ち込みも厳禁だ。煙草と小説、時々コーヒー。しっかりと孤独になれるのでしっかりと眠れる。しっかりと眠り過ぎて起きたらきっと昼前だろうなぁ、などと思いながらゆっくり風にあたるのだ。


いつだか、"ずっと夜ならいいのに"と私に言った人が居た。本当に、非常に、大変、心の奥底から共感、大賛成、清き一票。これ以上に素敵な言葉が他にあるだろうか、いや、あってたまるか。と、夜風にあたる度にそう思う。夜と夜の私は最強にロマンチックだ。


小説や映画の好きな場面も夜が多い。よしもとばななのキッチンもそのひとつである。
夢の中で物語の主人公みかげが雄一と一緒に、菊池桃子の『ふたりのナイト・ダイヴ』を歌いながら夜のキッチンの床を磨き、心の距離をぐっと縮めていくシーン...最強にロマンチックだ!!


これは私にとってある種のSFであり、実に高尚、不可思議でありつつ無垢なキュートも兼ね備え、サラダボウルの様で有りながらも生一本。まさに正真正銘・清純派ロマンチックファンタジーなのだ!!!


夜は私の心を鼓舞させる。何にでもなれるし何処へだって行ける。みんなが眠ってしまった静かな街を空から見下ろす事だって出来てしまう!


高級レストラン、ビルの最上階からの夜景、ふわふわのドレスに素敵な料理、シンデレラ城。これらもきっとロマンチックなのだろうし、私自身もロマンチックであると認識している。


だが、しかし!私は声を大にして言いたい!ロマンチックは自分で調理し、自分で食べるのが一番美味しい!そして人類は、精神衛生上これを"ロマンチックの自炊"と名付けロマンチック論として研究を進めるべきなのだ!!

以下が私のロマンチック論である。


先ず、"自分の中のロマンチックを相手に渡し、そっくりそのまま受け取るという行為はロマンチックと呼ばない"を前提に話を進めて行こう。


人は其々心の中に様々なロマンチックを秘めている。質も、形も、味も、色も、匂いも...全く同じロマンチックを持っている人は居ない。たとえお互い似ているロマンチックを感じていたとしても、ペンギンとスチール缶くらいの差があるのである。


その為、他人任せのロマンチックは、あくまでも相手が思う相手の中のロマンチックをいただく、という事だ。口に合わない場合もある。しかも多くの人は、ロマンチックを味わう前に間食として"期待"をもりもり食べてしまう。"期待"の味が美味しければ美味しい程、ロマンチックが噛み合わなかった時、メインディッシュは眇眇たるものになってしまうだろう。これではあまりにもつまらない。


だが、自分で材料を購入し、自分好みに材料を切り、好きな調味料を入れたロマンチックを食べるとなるとどうだろうか。素麺が食べたいのにギトギトのスペアリブが出てくる、なんて事故は起こらないのだ。


自分で調理をし始めてから、夜が今までの何倍もきらきらして見えた。他人のせいにしたり、勝手に幻滅したりする事もない。自分で調味料を足すことも出来るので可能性は無限大だ。本来、ロマンチックとは自由で有るべきなのである。以上。異論は認めよう。
それもまたロマンチック、という事なので。



さて、今夜もロマンチックを噛み締めて眠る。ロマンチック論は高遠だ。

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