情況についての発言(3)――『情況』誌についての発言

 この前、張本勲氏に対する私の印象を長々と書き連ねていった訳だが、先日その張本氏が日曜日朝の情報番組『サンデーモーニング』内のいわゆる「喝」のコーナーを降板することが2021年11月28日放送分で本人の口から伝えられた。あの舌禍に対する謝罪以来、大人しくなったと言われたが、この間に張本氏は二度も地方での野球教室を理由に当番組を欠席した。この事態に私はすぐに違和感を覚えた。このようなことは今までになかったからである。どんなに多忙であろうが、物理的に無理があろうが、リモートやヴァーチャル映像を通して出演していただけに、張本氏の欠席は様々な憶測を呼ぶに足りる。そしてしばらくして先の降板が伝えられた訳である。私はかねてより張本氏の降板を願っていたが、その理由はこの前述べたのでここであえて言及するまでもない。この降板発表に違和感を持たれる方が多いことは想像に難くないが、何よりも「人気」御意見番という「役割」から解放されることによって、張本氏が晩節を汚さずに済むのは私にとって(私だけとは限らないと思うが)は非常に喜ばしいことなのである。張本氏の今後のご活躍を心より願いたい。
 つい先日入ったニュースであるが、日本大学の田中英寿前理事長が2021年11月29日に約5300万円を脱税した疑いで逮捕されることとなった。今回は、脱税での逮捕となっているが、日本大学板橋病院を巡る背任事件への関与も疑われており、今後の捜査の過程で事実関係が明らかになることを待つばかりである。アメフト部の反則タックルが大々的に報じられたのを含め、田中前理事長の下では、様々な不祥事が相次いでいる。また、異論のある幹部や教職員などは、系列の学校に移動となることもよく聞かれ、今回の事件との関連で、日大の人事は会議室ではなく、田中前理事長の妻が経営するちゃんこ屋で決められるとも報じられている。これによって連想したことで、余りにもくだらない余談になってしまうと自認するが、プロ野球界であの球界の盟主を称する球団の人事も、会議室ではなく、別のマンモス大学の食堂あたりで決められるのではないか、と。本当にそうであるかはわからないが、今回の人事のてんまつを見る限り、どうしてもそのように思えてしまう。それはともかくも、今回の逮捕によって、田中前理事長は、理事長職を辞任することを余儀なくされた訳であるが、日大に(ほんのわずかな例外を除いて)素晴らしい教員がいるとは思わないけれども、それよりも立場の弱い非常勤講師の雇い止めの問題も明るみになっているので、これを機にいい方向に向かって欲しいところである。私自身は部外者であるけれども。
 ところで、今回俎上に載せるのは上記の事柄ではない。新左翼系雑誌『情況』誌の迷走ぶりである。『情況』誌は、東京大学新聞の編集等々を経験していた古賀暹氏が、「忖度」が口癖のマルクス主義系科学哲学者である廣松渉らの資金援助を受けて、創刊した党派とは独立した新左翼系のジャーナリズム・理論誌のことである。1968年7月の創刊である。古賀氏の回想録等々を参照しろと思われるかも知れないが、ここでは廣松の弟子を自認する哲学者の熊野純彦氏の著書『戦後思想の一断面――哲学者廣松渉の軌跡――』から創刊の経緯を記していく。
 熊野氏は1966年に起こった明治大学での学費闘争と推定しているが、とある事件を契機に組織からも学生戦線からもパージされながらも新左翼の理論誌を作ることを夢見ていた古賀氏を廣松が神保町の喫茶店に呼び出し、雑誌の件を切り出す。古賀氏は雑誌を作るのには300万円かかると言ったが、廣松は「そんなにかかるのか」と言い、いきなり下着一枚となり、下着の下に巻いた腹巻のなかから、100万円の札束が入った封筒を取り出した。熊野氏によれば、当時の100万円は、現在の貨幣価値に換算すると、約4、500万円になるという。残りの200万円はどう工面したんだと思われそうだが、ともかくも、やくざ者同士の取引を思わせるような経緯を経て創刊が実現した訳である。
 なお、『情況』誌の創刊については、フランクフルト学派研究で知られる清水多吉氏も、その著書『語り継ぐ戦後思想史 体験と対話から』で、ごく簡単にではあるが触れている。清水氏によれば、当時大学を卒業したばかりの古賀氏が、新しい知識を論じる雑誌を作るという話を、清水氏や廣松に持ちかけてきたとのこと。その件に清水氏と廣松が賛同し、創刊の運びとなったという。また、『情況』という言葉は、かつてのサルトルらの雑誌『シチュアシオン』に由来するという。いかにも淡々とした描きぶりであるが、熊野氏の記述のほうがいかにも誇張を含んだもののように思えてしまう。もっとも、熊野氏の記述は古賀氏の回想を参照したものなのだが。
 そんな経緯でもって創刊された『情況』誌は、8年後の1976年に一旦終刊を迎える。その後、再び廣松らの尽力を得て1990年に刊行再開し今に至る。その間に、幾度かのリニューアルや月刊から隔月刊への変更、隔月刊から季刊への変更があった。私がまだ学生や院生だった頃は、大学の図書館にも最新号が置いてあり、その内容も従来の新左翼の理論誌といった体であった。だが、隔月刊から季刊に変更された2017年春号(ちょうど私が大学院を修了した頃)から様相が表紙から変わり始める。どこの漫画家に依頼したかは知らないが、表紙がだいぶ様変わりし、ポップになっていたのである。
 次の2017年夏号の〈特集〉のタイトルは、「唯物史観からエコロジーへ 彼ら彼女らは、こぞって赤から緑に思想展開をとげた!」となっている。ここに来て、内容のほうも変わりつつあることが読み取れる。なおこの号では、警察官僚としてあさま山荘事件等々に関わり、政治家として郵政民営化に反対したことで知られる元衆議院議員の亀井静香氏にもインタビューを敢行している。なお、このインタビューのタイトルは、「INTERVIEWわたしの政治は、つねに下から目線でやってきた いまや日韓朝の結束で、強大国に対抗するべきだ」となっている。このタイトルに私は非常に困惑した。内容は読んでいないのだけれども。
 この頃あたりから新左翼とは縁も所縁もない物書きが多く寄稿者に名を連ねるようになってくる。2019年秋号の〈特集〉のタイトルは、次のようになっている。「Legalize it!さあ、そろそろ大麻の話をしよう」……『情況』誌にしてはだいぶゆるいタイトルとなっているが、方向性がだいぶ見えなくなりつつある。この号では、大麻取締法違反で逮捕された後の元女優の高樹沙耶こと本名益戸育江氏へのインタビューを行っている。本名を公開することに色々と見解を持たれている方々がおられると思うが、芸能生活の最後のほうは本名で活動されていたと思う。私はこのインタビューを少し読んだが、留置場にいる時のほうが本をたくさん読めたが、出てからのほうがマスコミによるバッシングでかなりしんどかった等々と大杉栄や佐藤優氏のをだいぶゆるくしたような獄中記を披瀝していた。益戸氏と一緒に同居人が二名逮捕されたはずであるが、益戸氏の元相棒が今どのような活動をしているかは不明なままである。
 その後の『情況』誌の方向性もやはり見えないままである。2020年春号の〈特集〉は、松任谷由実氏に支離滅裂な罵倒をし、トロツキーの「永続革命論」を拝借したような「永続敗戦論」が少し話題になったぐらいの下らないレーニン主義者の白井聡氏の責任編集による。
 2020年秋号の〈特集〉のタイトルは、「現代右翼の研究」となっている。この号の〈特集〉では、保守派として知られる論客が数名寄稿している。
 2021年、つまり今年に入ってからはその方向性の迷走ぶりにより拍車がかかる。2021年冬号では、鞄に札束が入り切ると頑なに言い張った猪瀬シンパで批評誌主宰者の東浩紀氏に寄稿を依頼した模様で、「ゲンロンという”根拠地”を創造せよ!」と、「言論」の基盤の建設を提唱するのと同時に、東氏自身の雑誌(『ゲンロン』誌)をアピールするような文章が掲載された。
 2021年春号に至っては、その方向性の迷走ぶりが非常に際立つ。その号の〈特集〉は、「国防論のタブーをやぶる」と題され、鼎談には、「原爆投下しょうがない」発言が反発を呼んだ初代防衛大臣(久間章生氏)が呼ばれ、アパ論文が物議を醸し、後に都知事選における選挙運動の際の公職選挙法違反で逮捕されることになった元航空幕僚長(田母神俊雄氏)や百合子さんに更迭され、山田洋行事件で逮捕されることになった元防衛事務次官(守屋武昌氏)がインタビューに応えている。また、左翼と民族派の若手座談会も行われ、一体どこの雑誌なのかと錯覚してしまった。
 今回、詳しく取り上げるのはその次に発行された2021年夏号であるが、前号の様相からこれは詳しく確かめなくてはとの理由で、手元に置くことになった。この号もやはりけばけばしいポップな表紙となっており、反資本主義を標榜しながらも、あたかもその当の資本主義の渦に飲み込まれているかのようである。そして、その〈特集〉は「DON’T TRUST OVER 40 青年たちは糾弾する」と題されており、紙面の多くは、もはや新左翼やマルクス主義とは何の関係もない高校生や大学生の活動家による座談会や時事的評論によって占められている。その〈特集〉の巻頭ページには、2019年9月23日の国連気候行動サミットにおける環境活動家のグレタ・トゥーンベリの演説が引用され、その下に次のような言葉が書かれている。

2019年9月、スウェーデンの高校生環境活動家グレタは
気候環境保全の努力を先延ばしにしてきた全ての先行世代に対し
渾身の非難「How dare you!」を浴びせかけた。
2021年10月、日本の高校生シンガーAdoは
同調圧力ばかりが幅を利かせる伸びしろのないクソ社会をつくりだした
日本の先行世代を「うっせぇわ」の一言で切り捨てた。
保守政治に頼ったところで元首相の言う「美しい国へ」向かうはずもなく
新左翼の老闘士たちが同窓会でインターナショナルを歌ったところで
何の新しい社会運動も生まれてはこないのだ。
論理にほころびがあろうが、怒りの溢れかたが雑駁であろうが
青年たちの主張をこそ、今、聞くべきではないか。

 これはもはや末期症状と言う他はない。『情況』誌が、自らの根拠をボロクソに否定(自己批判?)しているからである。そして、高校生環境活動家のグレタ・トゥーンベリの渾身の非難「How dare you!」と日本の高校生シンガーのAdo氏の「うっせぇわ」とを重ね合わせるという愚を犯している。「うっせぇわ」は昨年末から今年にかけて非常に大きな反響を呼んだ楽曲であるが、Ado氏自らが作詞作曲した訳ではなく、「うっせぇわ」の反響の後は、大資本に忖度したような楽曲ばかり歌っている。最近では、あの失敗しないフリーの外科医(自称・他称)のテレビドラマの主題歌に起用されており、パンデミックの下内科主導の下に外科が置かれようが、ニューヨーク帰りで焼き鳥屋で泥酔するポンコツ外科医や頓珍漢な発言を繰り返して軽度の副鼻腔炎ぐらいで入院する環境大臣や百合子さんのような都知事が登場しようが、あの江戸時代臭いテレビドラマなど私の知ったことではない。
 社会運動とサブカルチャーとを安易に結びつける傾向が今に限らずよくあることだが、あくまで別物であることをわきまえなくてはならない。私はサブカルチャーには抵抗文化という文脈が含まれていることで大いに関心を示しているほうであるが、実践的な政治運動に援用しないぐらいの分別は保っているつもりである。文化は文化として抵抗してくれればいいだけのことである。サブカルチャーの担い手にしろ、ハイカルチャーの担い手にしろ、政治的に見える主張または作品も見られるだろうが、それに実践的な運動家がわざわざ立ち入る必要もなければ、それを利用する権利もない。文化の担い手からしたら甚だ迷惑な話である。明らかに政治に結びついたような主張または作品ならむしろ糾弾すべきだが。判断は難しいけれども。
 ここ最近、椎名林檎氏を対象にした批評文がよく見られるようになったが、椎名氏と言えば、数年前に「NIPPON」というシングルや『日出処』というアルバムがリリースされたことで、論壇を中心に大騒ぎになったことがある。だが、それから5年ほど経った昨年に東京事変名義で「赤の同盟」という楽曲が発表された。つまりは、政治的なメッセージでも何でもなくて、椎名氏による単なる芸事の一つだったということである。ここ最近の椎名氏を対象とした批評文の増加が、「赤の同盟」の発表を受けてのことであるならば、私は憂うべき事態であると言わざるをえない。そして、椎名氏が「NIPPON」や「赤の同盟」を歌おうが、ノーベル文学賞受賞者がアコースティック・ギターからエレクトリック・ギターに持ち換えようが、実際の政治・社会運動には何の関わりもないことであり、私は先の白井氏のような下らぬレーニン主義者みたいに「偉大なアーティストは同時に偉大な知性であって欲しかった」などと馬鹿気たことは言うつもりもない。
 だいぶ回り道をしてしまったが、そろそろ〈特集〉の内容に入る。まずは教育ジャーナリストの小林哲夫氏の文章から始まる。そこで小林氏は、戦後から現在までの高校生による社会運動の歴史を振り返る。小林氏によれば、1952年のメーデー事件においても、1960年の安保闘争においても、1969年から1970年にかけての全共闘運動においても、高校生は学校をバリケード封鎖し、学校や社会のあり方を問い続けたが、1980年代から2000年代にかけて、高校生が社会と向き合う機会が限られ、身近な闘争テーマからデモに参加する発想すら持ち得なかった。だが、その風向きが変わったのは、2011年の原発事故以降であるとしている。そして、2011年以降の様々な事例を取り上げて、文章は締め括られる。
 そして、高校生活動家同士の座談会、その次に大学生活動家同士の座談会に入る。いずれの座談会も、気候変動問題、高等学校の校則の問題、入管問題、英語民間試験・記述式試験の導入問題、フェミニズムといったように取り組む課題が異なり、かつ通う学校も異なる活動家が集まっている。どの活動家も、取り組むべき課題に関する情報や前提知識を豊富に持っていることに驚かされた。特に高校生だった頃の私は一体何をやっていたんだと思うほどである。
 この二つの座談会で私が気になった発言を取り上げたい。今年、早稲田大学に入学したという大学生活動家の吉田武人氏の発言であるが、吉田氏は現在、早稲田大学にまつわる諸問題に取り組んでおられるようであるが、社会に対する関心は、2015年の安保法制と集団的自衛権閣議決定に対する抗議運動が原点だという。吉田氏はその頃は恐らく中学生であると察せられるが、その頃の私はと言えば、バスケットボールに熱中していたと公言する柄谷行人氏と同様に取るに足りない中学生、高校生であったので、吉田氏には非常に頭の下がる思いである。
 そんな吉田氏であるが、早稲田大学に通うぐらいであるから非常に優秀な生徒だったのだろうと思ったのだが、そうとも言えないようである。吉田氏が通っていた高校は、偏差値が平均的な53の神奈川県であっても田舎のほうの地方の公立校であった。吉田氏によれば、そのような高校では、政治的な話題や政治性に対する認識がまったくない生徒が多いという。そして、他の活動家の学生から「神奈川県は「地方」なのか」と疑問に思われると、次のように答えている。

吉田 神奈川はホワイトカラーである程度収入がある人が戸建ての家を買って住むような地域と、元々から住んでいるという地域と二つあるので、僕は後者だったんです。
 そういう中では、本当に新海誠や細田守の世界というか、自分の半径五メートルの世界が世界であるような認識なんですよ。その中でいかに政治を語るかということはまた別として捉えなきゃいけない。それは本当に昔からの課題だとは思いますけどね。

 私も神奈川県、と言っても海の近くに住んでいるので、吉田氏の言いたいことはよくわかる。神奈川県と言っても、東部はおおむね都市のようなものであるが、西部のほうは、吉田氏が言うように、田舎と思えるような所が意外と多い。また吉田氏がそうであったように、私も偏差値が平均的な高校に通っていたので、政治的な話題や政治性に対する認識がまったくない生徒が多いというのも、おおむね当たっている。
 蛇足ではあるが、ここで私の高校時代にあった出来事を一つ記しておきたい。神奈川県では、公立中学校卒業者の急増と高校進学率の上昇を背景に、1970年代から80年代にかけて高校百校新設計画が計画、実施された。それは文字通り、公立高校を新たに百校ほど新設するというものなのだが、80年代の末頃までに計画通りに実施された。だが、その結果は惨憺たるものとなった。百校のほとんどが普通科の高校であり、数の上で商業や工業などの高校とのバランスが悪くなり、また、普通科の授業について行くだけの意欲や学力が伴っていない生徒までもが普通科に入学することになり、多くの教育困難校を輩出してしまった。少子化も重なり、2000年代に入ってからは、新設の教育困難校を中心に統廃合が進められることになった。先にも述べたように、私が通っていた高校の偏差値は平均的であったが、隣の高校の偏差値が低かったからか、統合の対象になっていた。統合されるのは私が高校を卒業する次年度のことであり、そのことは私が中学校を卒業する前から承知のことで、その上で私は入学したのであるが、統合された後は単位制となり、私らの学年はその煽りを食う格好となった。
 統合前は6限の50分授業だったのだが、統合後は単位制の3限90分授業となる予定であった。それだけならば何も文句はないのだが、私たちの学年は試験的に2年時に、昼食後の授業の1限90分授業となった。つまりは、午前中が4限50分授業で、午後が1限90分授業となる。だが、私たちよりも一学年上の3年生は6限50分授業が維持されたまま卒業することになった。そして、私たちの学年が3年になるにあたって、90分授業に賛成か反対かといったアンケートがなされた。教員側は、早く授業が終わるなどと並べ立てていたが、生徒側のおおかたは90分授業には否定的だったように思う。私ももちろん否定的であったが、なぜこのようなアンケートがなされたのかと言うと、統合後に卒業することになる下の学年に合わせたかったのだろうか、何の関係もない私たちの学年にも3限90分授業を課す予定だったからである。私が否定的だったのは、実際に受けての実感からだった。生徒側のおおかたもそうだったと思うが、90分授業を実際に受けてみると、これが非常につらい。50分授業と比べて、とんでもない集中力を要するのである。大学の講義もそうだろうと思われるかも知れないが、大学の講義の場合は、教員の都合次第で開始と終了の時間が変わることが多い。高校の場合、そうはいかない。必ず時間通りに始まり、時間通りに終わる。実際に60分を過ぎたあたりから生徒の集中力が切れ始めていて、そして、なぜ私たちの学年だけがこんな目に遭わなければならないのかという思いもあったように思われる。
 アンケート用紙がすべて回収されるやいなや、担任教員の口から、「90分授業はもうすでに決まったことなので」と発せられた。すると生徒側からは大ブーイングが起きた。それもそのはず、それならばアンケートなど取る必要などないじゃないかということである。本来ならばここから抗議活動が起こるところなのであるが、事態は瞬く間に鎮静化した。生徒会も機能しているとはとても言えなかった。このようにして、私たちの学年は、1年時に6限50分授業、2年時に4限50分授業の1限90分授業、3年時に3限90分授業という非常に稀有な組み合わせを体験することになった。なお、これは先の小林氏が高校生が社会と向き合う機会が限られたという2000年代後半の出来事である。私も含めてだが、当時の高校生はデモを組織する発想すらなかったのである。偏差値が平均的な高校だったこともあるのだろうが。
 〈特集〉の座談会では、都立北園高校における管理教育の強化を巡るドキュメンタリーを制作したOBで大学生活動家の中村眞大氏と同高校前生徒会長の安達晴野氏が出席しているが、安達氏によれば、北園高校は「自由の北園」と呼ばれ、制服も校則もなく、生徒の自治に任されているが、ここ最近は生活指導が厳しくなり、管理的になってきているという。詳しくは次のように発言している。

安達 服装については何も言われたことはなく、他の人が言われたという話も聞いたことはないです。ぼくは他の人が着てない服を着るのが好きなので、浴衣を着て行ったりしました。校則用語で言う「奇抜な服装」をしていても先生に怒られたりすることは全くないし、むしろ「その服装いいね」と気さくに話しかけてくれる先生もいらっしゃいます。頭髪のほうが厳しかったです。先生にもよりますが、ちょっと茶色いだけで「明るくない?」と言う方がいます。学年集会の生活指導上の話とか、担任の先生が作ったプリントにも、髪の毛の色は明るくしないように、また、基本的に髪を染めることはしないように、というお話があります。ただ、それは校則に書かれた規定ではなくて、先生方が暗黙の了解で強いることです。これに対して多くの北園生が不満に思っていて、中には声を上げている人もいます。

 校則に書かれていないことを姑息に強いることにはやや抵抗があるが、他の座談会参加者の発言を見るに学校によっては規定や慣習は異なるようではある。それは私の高校時代も同様であって、またもや個人的な話になってしまうが、私の通っていた高校では校則に頭髪や服装の規定はあったが、頭髪に限って言えば、それほど管理的ではなかった。最近ではツーブロックが注意されるとよく聞くが、襟足の長い生徒が多かった私の高校時代から見ると、極めて異様なことと思わざるをえない。1980年代にはテクノカットが校則で禁止されていたとも聞くが、これと同じように馬鹿気たことと言わざるをえない。
 安達氏は、生徒会長だったこともあり、校長先生に頭髪指導の意義を伺ったことがあるという。再び発言を引用する。

安達 ぼくは生徒会活動をやっていて、校長先生に直接、髪染め指導の意義を伺ったことがあるのですが、校長先生は答えに困りながら、「お金もかかるし、絶対にやらなければならないことでもないし」と細い声で仰っていて、最後は力強く「髪染めを指導することがわたしたちの職責なので」と言われました。理由を説明せずに一方的に締め付けて、生徒に対しても向き合わないことが果たして指導といえるのか、職責を果たしているといえるのかは疑問です。

 安達氏の発言を見るに、髪染め指導に意義がないのは明らかである。校長先生の回答はあまりにも論理性に欠いている。これでは生徒側から反発が起こるのは当然である。ドキュメンタリーを制作した先のOBの中村氏は、自分が入学したあたりから管理教育が強化され、頭髪指導が制服導入の契機となる学校が多いことから、「北園現代史」というドキュメンタリー映画を制作したという。この号の〈特集〉には、中村氏の手になるドキュメンタリー映画の制作経緯(日記)が掲載されているが、そこには教員側との静かな攻防が記され、ジャーナリストの田原総一朗氏や同校のOBでもある同じくジャーナリストの津田大介氏、同じくOBで2ちゃんねる開設者の西村博之氏へのインタビューについての経緯も記されている。田原氏や津田氏どころか西村氏までもが応援していることには驚かされた。「北園現代史」は、インタビューに応じた津田氏や社会学者の上野千鶴子氏などといった著名人がTwitter上でリツイートや引用ツイートしたこともあって、制作者本人が予想する以上に大きな反響を呼んだようである。この件について記者に聞かれた当時の萩生田光一文部科学大臣が、「個別の案件については知らないが、(中略)先生たちももし学生たちがそうやって一生懸命、礼儀正しく議論をしたいという姿勢を示しているんだとすれば聞いて差し上げたらどうかなと個人的には思う」(『The Interschool Journal』2021年4月13日)と回答するに至った。ただ、「個別の案件については知らない」とすれば、萩生田氏は一体何を想像しているのだろうか。見方によっては、他人事のようにも思える。この発言を本当に信じてもいいものだろうか。
 この〈特集〉では、他にも若い活動家による文章が寄稿されているが、いずれもマルクス主義や新左翼の理論とはほど遠い。ただ私は彼/彼女らの活動を否定するつもりはない。年齢関係なく眼前に課題があるのであれば、それを改善できるように取り組めばよい。ただ、『情況』誌が自身の根拠を否定(自己批判?)してまで〈特集〉すべきことなのか疑問に思われる。どこか別の媒体が取り上げるべきだとも言いたい。どこかに受け皿がないものだろうか。
 この〈特集〉の最後のほうで、東シンパで自分はもうすぐ40歳になると自嘲気味に語る藤田直哉氏の手による「「うっせぇわ」とSDGs時代」という文章が、この〈特集〉を締め括るように掲載されている。この文章では、現在の若い世代やそれに先行する藤田氏の世代や68年世代、いわゆる全共闘世代が極めて抽象化された形で規定された上で比較され、またAdo氏の楽曲である「うっせぇわ」を現代の情況に当てはめて、いかにももっともらしい解釈が施されている。そして藤田氏は、この文章の最後のほうで次のように言っている。

 たくさん増えすぎたから地球環境を悪化させ、このままだと絶滅も視野に入ってきてしまったので、そのような「発展」「高度化」の流れ自体を反省しようというのが、脱成長派や「成長の限界」の人たちの意見だと思うが、しかしそれは、生命の流れとして可能なのかどうなのか。そんな大きな転換が果たして可能なのか。SDGsのように、成長も発展もしつつ未来に希望を賭け、地球環境の破壊や社会の悪化を防ぐというぐらいが、可能な折衷案ではないか。

 同調圧力が強く、真面目で、人々が互いに規制し合い、空気を読みがちなこの国の文化では、もっとゆるく、自由に、猥雑に、享楽的な要素を意識的に回復するぐらいでちょうど良いのではないか。極端から極端に行くよりは、ほどほどにガス抜きしつつバランスを取るぐらいでいいのではないか。そうしなければ、民主主義的な態度も生じにくいし、従って様々な社会課題を解決するための創造性も発揮されにくくなるのではないかと思うのだ。

 率直に言おう。貴方のほうが「うっせぇわ」と言いたい。貴方が思うより今の若い人達は健康です。SDGsをも批判的に見る斎藤幸平氏のようなエコロジー・マルクス学者の主張に物申したいのであろうが、編集部はまあよくこのようなズルズルベッタリな駄文を容認したものである。藤田氏のような安全地帯から眺めたような社会学的な駄文を書く物書きなど、40歳を越えていようがいまいが、誰が信用するとでもいうのかね。
 ここ最近、『情況』誌の評判が良いと聞くが、方向性を見失い、資本主義の渦に飲み込まれて、取り返しのつかないようなことになるのを避けて欲しいところである。

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