松田政男の兵士観

 先日、松田政男の評論集である『風景の死滅 増補新版』を取り上げ、松田が提起した「風景論」の展開を追ったのであるが、その「風景論」自体が行き詰まり、振り出しに戻る体のものであると言わざるを得なかった。ただ、私が追ったのは、同書のなかの「風景論」の部分のみであり、同書が評論集という形態である以上、「風景論」にまつわる批評文が主だとはいえ、話題は多岐に渡る。そのなかで、私は松田の兵士観について言及したい。
 同書のなかの「ゲリラ空間とは何か」という批評文において、その兵士観が大いに語られている。この批評文は、キューバ革命戦争における指導者であるチェ・ゲバラの兵士観を論じたものであるが、松田はそのゲバラの兵士観におおむね好意的である。そこで松田は、キューバ革命戦争における有名指導者ではなく、ゲバラの回想録において名を留めることになった無名兵士に注目している。なぜかと言えば、革命の勝利を最底辺で支えていたからである。
 この無名兵士は、ゲリラ兵士とも言い換えられるが、それはカール・シュミットという政治学者が理論構築したように戦線外において小規模な部隊を形成して、臨機応変に奇襲するといった非正規的な戦闘を行う民兵のことである。松田によれば、10人から20人の小集団としてシエラ・マエストラを彷徨していたキューバのゲリラ兵士は、必ずしもすべてが20代の屈強な青年革命家によって構成されていた訳ではない。そこには、フリオ・セノン・アコスタという名の45歳の農民や喘息で苦しむゲバラに対して喝を入れるクレスポという百姓や「チビの牛飼い」と呼ばれ、幻想と現実の区別がつかない典型的なラテンアメリカの青年のような人物ばかりがいる。松田によれば、彼らはキューバの大地から生み落とされ、そして再び自らの死体を土に化さしめた農民である。
 松田は、以上の3人のなかでもとりわけフリオ・セノン・アコスタという名の45歳の農民について仔細に語っている。アコスタは、ゲバラにとって初めての生徒であり、彼は文字の読み書きができず、むろん、教養もない。だが、ゲバラによれば、アコスタは単に前向きの精神だけで、文字の読み方を習おうとした。このことから、松田は、ゲリラ兵士になるためには教養ある過去は必要ないと断言する。そして、松田はこのアコスタを「ゲリラ戦士のあらゆる徳目を一身に備えた大勇者」であると評して、ゲバラのアコスタ評の文章を引用する。ゲバラによれば、アコスタは疲れを知らず、その地方のことを隅々まで知っており、気落ちした同志や、困難を克服するだけの体力や気力がまだできていない都会出身者にいつでも力を貸し、一言で言えば、万能役者であった。
 だが、そんなアコスタも戦死する。松田によれば、カストロとゲバラの二つの部隊が合流・再編成した時の人員が18人であったことを考えると、アコスタの死は、高価な犠牲であった。そして、松田はアコスタの行動から次のような教訓を得るに至る。

 しかし、この一人の農民兵士は、まさにその全身全霊によって、キューバ革命における軍事問題の核心とも言うべき偉大な教訓を遺したのである。すなわち、「軍隊とは制服を着た人民である」、いや、軍隊とは制服を着た人民でなければならぬという、かのカミロ・シェンフェゴスが喝破し、ゲバラによってしばしば引用されているところの金言を生み出さしめる源となった生証人こそ、アコスタのような存在であったのである。

 教訓とは、「軍隊とは制服を着た人民である」という。松田は、この教訓の意味を掘り下げていく。松田は、初めにゲバラの「ゲリラ兵士とは何か?」という論文を参照する。ゲバラの論文によれば、ゲリラ戦は単なる小規模な戦争ではなく、強力な軍隊に立ち向かう小集団の戦争でもない。むしろ、圧制に対して反逆する全人民の戦争である。そして、ゲリラ兵士はそのなかでの武装した前衛で、ゲリラ部隊は一地方あるいは一国の全住民そのものであり、つまるところ、ゲリラが存在することのできる基盤と根拠は人民そのもののなかにある。また、ゲバラは、ゲリラ戦における基本的原則の一つとして、戦場の地形について自分の掌のように熟知していなければならないことを挙げ、それは人民がゲリラ兵士のあらゆる行動を背後から支える時にのみ可能とした。
 松田がゲバラの論文をいかように解釈したかはさておき、ゲリラ兵士における「人民と軍隊との変換の回路」という理論を考案し、それに固執しているようである。ここで対極にあるのは、常備軍や正規軍である。より詳しく言えば、松田はトロツキーの赤軍やレジス・ドブレのキューバ革命戦争観を標的にしているのである。
 トロツキーはさておき、ドブレについて簡単に紹介しておく。ドブレは、1981年からのミッテラン政権で外交顧問として参画するなど、今もなお活動しているフランスの代表的な評論家であるが、そんなドブレを有名にしたのが、キューバを訪問し、カストロとの交流によって書かれた『革命の中の革命』である。1967年に刊行されたドブレのこの著書は、武装闘争によるキューバ革命戦争の正当性を謳い、世界的なベストセラーとなった。と同時に、当時のゲリラ戦の聖典ともなったのであるが、松田はそんなドブレの兵士観を変換的ではなく、単線的であると考えている。「人民と軍隊とのあいだにある変換の回路は、常備軍から民兵まで、ドブレ流の単線として、歴史的かつ論理的に発展させられるほかはないのであろうか。決してそうではない、と私は考える。」
 以上のように、松田はドブレの兵士観を批判している。ドブレに対比する形でゲバラの文章を松田は引用する。

 ゲバラが前出「ゲリラ兵士とは何か?」において、「その地域の住民は運搬員になったり、情報を提供してくれたり、看護してくれたりする。また彼らは戦闘員も提供する。つまり彼らこそ武装した前衛にとっての最も重要な補完部分を構成するのである」と述べる時、ゲバラの脳裡にあったものが、緑色の現実から生ま生ましく蘇ってくる無数の実例に違いなかったであろうことを喋々する必要はもはやないのかもしれない。

 そして松田は、その実例として、先に私が挙げたクレスポという百姓や「チビの牛飼い」を挙げ、それら一見取るに足りぬかに思える農民の革命戦争における働きぶりを讃える。以上のゲバラの言葉から、革命戦争に協力する農民、または住民達が非常に倫理的に立派な人物と思われるかも知れないが、決してそうではない。松田は再びゲバラの文章を借りる。「「闘争の最初の段階では、反乱軍の中核となっていた農民は、今日、シエラ・マエストラにいる、自尊心の高い小土地所有者であり、頑固な個人主義者である農民と同じ農民であった」と。」その反乱軍の中核であると同時に、頑固な個人主義者でもある農民の例を松田は、ゲバラの文章のなかに見ている。バンデラスという農民は、自ら額に汗を流して、自分の利益のために土地を耕すことを望み、「共同農場」の話をなかなか理解しようとしない。また、大農園の手代ダビッドは、農民を軽蔑する人種差別論者である。けれども、バンデラスは次第に「共同農場」の利点を理解するようになり、ダビッドは主人に忠実である。それゆえに、ゲバラは、革命は多くの素朴な人々の真面目な努力によって完成され、われわれの使命は、各人が持つ善なるものや貴いものを発展させ、すべての人間を革命家に仕立てることと総括する。このことから、松田は次のように考える。

 「頑固な個人主義者」であることとゲリラ兵士であることとは、ちょうど、文盲であったり、口が悪かったり、駄法螺ふきであったりすることと勇敢な戦士であることとが背離しなかったように、決して、矛盾しないのである。キューバ革命における軍事問題の秘密を解くカギは、実に、この、通常の徳目表では両立を許されない無数の人間たちの無数の品性をば、それが長所であろうと短所であろうと、また欠陥であろうと特質であろうと、すべてゲリラ兵士の生誕のためのエネルギー源に化してしまったところにこそあるのだ。

 そして、「軍隊とは制服を着た人民である」という教訓の意味を確定する。「すべての人間は革命家たることができる――おそらく、「軍隊とは制服を着た人民である」というテーゼの背後にあるキューバ革命の思想とは、この、人間の可変性に関する不屈の楽天性なのである。」
 とはいえ、言うまでもなく、個人主義者でもあるキューバ革命戦争におけるゲリラ兵士の短所は、非常に際立つ。相対立する特質を内包しているからである。とりわけ、革命の裏切り者の行為には非常に驚かされる。

 「長いものにはまかれろ」とばかりゲリラの群れに身を投じ、支給された拳銃を数ペソの金に変えてしまった農民アリスティディオ、革命軍のメッセンジャーの特権をふりかざして一人の少女を強姦し、銃に向って大きく眼を見開いたまま「革命万歳」と叫んで死んで行った青年兵士、事もあろうにゲバラの名をかたり診察を受けにきた少女を犯した「先生」と仇名されていた美丈夫、農民ディオニシオにいたっては、都会の組織からシエラ・マエストラに補給されてくる物資を掠め取り、革命の名を利用して「三軒の家を所有し、その一つ一つに、女一人ずつと食糧品をどっさり貯えていた……。」にもかかわらず、いや、それ故にこそと言うべきなのだろうか、ディオニシオは「素朴」な農民なのである。革命法廷で、カストロが「裏切り行為、不道徳行為」をきびしく告発して「人民の金と一緒に三人の女を持っていたではないか」と言った時、ディオニシオは答えるのだ。「三人は持っていません。二人だけです。一人は正妻ですから」と。

 だいたいこのようなものである。兵士と聞けば、おおかたは規律を重んじるように思われるかも知れないが、だいたい以上のようなものである。日本の自衛隊にしろ、駐日米軍にしろ、以上のような不祥事はよく耳にする。けれども、キューバ革命戦争のゲリラ兵士のなかの裏切り者の行為は、以上にあるように、群を抜いている。松田によれば、「処刑する側と処刑される側とを分かつものは、一条の、しかし決定的な一線にすぎ」ず、つまりは、キューバのゲリラ兵士は、誰彼構わず、その短所によって、処刑される側になりうるということであるが、それゆえか、キューバ革命戦争において、ゲリラ兵士の団結の絆となったものが、鉄の規律や制裁に対する恐怖心ではなく、ある場合には「政治的弱点」をさえ共有することによって連帯しうる別の何かとなる。恐らく、この別の何かとは、「人間の可変性に関する不屈の楽天性」であると思われるが、松田は、良い意味であれ、悪い意味であれ、その「人間の可変性」に対する信頼感が、キューバ革命戦争における軍事問題を論及する際の最底辺にあると考えている。
 そこで松田は、再びゲバラの「ゲリラ兵士とは何か?」を取り上げ、ゲリラ兵士が何を目的に戦うのかに関するゲバラの見解を引用する。そこで述べられているのは、先述のように、圧制に対する反逆である。圧制ゆえに抗議するのである。なかでも松田は、ゲバラの次の一文を強調している。「ゲリラ兵士は現体制を支える個々の条件に対して、それぞれ最も適切な瞬間に戦いを挑む。」(太字は松田)「それぞれ最も適切な瞬間」、それは決して状況的なことではない。言うまでもなく、状況において、主体と攻撃対象との関係は、どの瞬間にもあるが、ゲリラ兵士が思う存分に自らの力を発揮するのは、ほんの一瞬であると松田は言いたいのである。松田は言う。

 一人のゲリラ兵士の主体存在の全生命過程のなかで、彼は、或る「最も適切な瞬間」に、偉大な戦士たりうるのだ。次の瞬間、彼は敵弾に斃れるかもしれず、また別の瞬間、彼は脱走兵の汚名のもとに味方に射たれるかもしれない。しかし、まぎれもない「最も適切な瞬間」に、彼は、その全戦闘能力を発揮しうるのだ。

 「最も適切な瞬間」にこそ、ゲリラ兵士はその全戦闘能力を発揮すると松田は言うが、その「最も適切な瞬間」の意味をどう確定すべきか? ゲリラ兵士が戦う目的が圧制ゆえの抗議であることは先述の通りであるが、ならば、ゲリラ兵士はその土地の住民(農民)であり、圧制の影響を受けるその土地こそが、戦闘の舞台となる。それゆえ、松田はゲリラ戦の主要舞台である農村の土地的性格を強調している。言うまでもなく、その土地の住民(農民)でもあるゲリラ兵士は、その土地を熟知している。先述のように、そのことはゲバラの言うゲリラ戦における基本的原則の一つである。その土地を熟知しているゲリラ兵士は、同時にその土地の住民(農民)であり、圧制ゆえに抗議するからには、その土地において武装する。となれば、「軍隊とは制服を着た人民である」という教訓は次のようにより明瞭となる。

 「軍隊とは制服を着た人民である」という簡明直截なテーゼは、かくて、鍬をもつ農民が銃をとる兵士と化する往路だけではなく、逆にまた、銃をとる兵士が鍬をもつ農民へと還りうる復路をも内包した、一つの円環を描きうることになる。

 それに対比されるのが、先にも言及したようにドブレが重視するような正規軍や常備軍であり、松田はそれを否定的に見ている。

 エンゲルス=レーニンの言う「住民の自主的に行動する武装組織」として出立した人民の軍隊が、たやすく「武装した人間の特殊な部隊」にまで自らを疎外し、堕としめてしまうことへの抑止力となるのは、ただ、軍隊と人民のあいだに往復の過程をもつ回路をば、長い長い過渡期の遙か未来にではなく、現にいま、胚芽のうちにさえ、論理としてかつ実体として保持しえているか否かにかかっているのである。ドブレ流の正規軍主義は、今日、かく止揚されねばなるまい。

 正規軍や常備軍は、言うまでもなく、組織的な特殊部隊であるが、それらは制服を着用している。だが、それはゲリラ兵士の攻撃対象であり、圧制の象徴とも言いうる。松田によれば、「〈大地の軍隊〉としてのゲリラが存立し、人民と軍隊の変幻自在な存在交換をば保証する空間」は、「〈第三世界〉の大地」である。正規軍や常備軍は、制服を着用しているがゆえに、その空間に足を踏み入れた瞬間にゲリラ兵士の標的となり、また、制服を着用していることが命取りとなる。取るに足りぬ農民が非日常的な危機においてのみ武装する農村という空間は、正規軍や常備軍からすれば、非正規的な空間であって、そこにおいて戦略・戦術の変更を余儀なくされる。そして、正規軍や常備軍は、部外者であるゆえにゲリラ兵士ほどには、非正規的な土地での戦い方に通じていない。個人主義的でもあるゲリラ兵士にルールなど関係ない。目的は圧制への抵抗であり、それゆえに正当化が生じる。非正規的な土地に不慣れな正規軍や常備軍を引き寄せるや否や、ゲリラ兵士たちはその全戦闘能力を発揮する。ゲリラ兵士の側からの犠牲者も続出するであろうが、戦闘が終われば、すぐさま取るに足りぬ農民に戻るだけである。

 改めてフランツ・ファノンを引くまでもなく、私たちが生き、そして死んで行くであろう二十世紀のこの現在は、〈第三世界〉の「人民による人民の大地の征服」の時代である。十五世紀以降、白い支配者たちの思うがままに抑圧されてきた黒い原住民たちが、自らが拠って立つべき大地の復権を果すべく、「自分の生に意味を与えることはもはや問題でなくなり、自分の死に意味を与える」(ファノン)べく総反乱を開始した時代である。この、生と死の短かい一瞬に、〈第三世界〉の人民たちは自らを軍隊として組織し、かつ再び、人民として自己を定立せしめる。ゲリラが生成する空間において、敵は、まさに制服そのものなのだ。彼らは自らの制服をば廃絶すべき道筋をもあらかじめ組み込んだ上で、自己を兵士と化さしめるのだ。すなわち、そこでは、軍隊は、国家とともに、常に死滅すべき対象として存在しているのである。

 ゲリラ兵士にしてみれば、自らが拠って立つ大地が復権しさえすれば、制服はどうでもよいものになる。ゲリラ兵士は、ただ大地の復権という目的のためだけに、廃棄すべき敵の制度を一時的に模倣しているだけなのである。松田は、「ゲリラ空間とは何か」を書いている時点で、「〈第三世界〉のゲリラの戦略と戦術の体系は、未だ壮大な理論化を完了するにはいたっていない」とし、次のような言葉で「ゲリラ空間とは何か」を締め括る。

 言葉の最も悪しく誤てる意味での正規軍主義が横行している私たちの「軍事問題」状況を克服するためにも、私たちは、「解放された人民の軍隊」の理論であるところの〈影の兵学〉の体系を、〈第三世界〉の大地の「深層」から確立して行かなければならないのである。民兵思想を歴史の「暗黒の次元」から発掘し、正当に復権せしめることこそが、この瞬間における私たちの緊急な課題でなければならない。

 松田が以上の緊急な課題を提示してから50年以上もの年月が経過しているが、民兵思想どころか、「暗黒の次元」から発掘されてもいない。それどころか、軍隊の正規軍主義化が横行というよりは徹底されていっているように思われる。自衛隊がいずれ国防軍となることも考えられる。
 「第三世界」と言えば、今や死語に等しい用語のように思われ、かつて「第三世界」と呼ばれた国々では開発すら進行し、ゲリラ空間ともなる農村も次第に減りつつある。代わりに、各国において都市が増え、むしろ、その都市において、労働者が生み出され、「周辺」とも呼ぶべき地帯が広汎に生じているとさえ言える。昨今の新自由主義経済の浸透によって、都市において貧富の差が拡大することとなった。保守系であろうが、革新系であろうが、どの政党が政権を担ったとしても、信頼を置けるものでないことも明白となってきている。それどころか、国家はどの国においても専制的となり、富が集中する資本家の影響力が幅を利かせている。政府による規制緩和によって、企業間の競争も激化し、効率やコストカットが求められ、その損害を被るのは常に低所得者層となる。人件費は大幅に削られ、賃金が下がるか、下がらない代わりに人件費の削減という人災的な人手不足による労働者への身体的負担を受け入れるかのいずれかを労働者は受け入れなければならなくなっている。
 競争が激化するにつれ、あらゆる意味で貧困は拡大する。そうなれば、近代的な諸制度の矛盾が浮き彫りとなり、誰しもが、近代的な諸制度で成り立っている社会構造に疑惑の眼を向けることになりうる。それは一国に限らない。全世界的にそのような傾向にあるのである。ならば、そのような社会構造を攻撃し、新たな社会構造を打ち立てる他はない。
 そのためには、貧困にあえぐ大勢の労働者が結集して、現在の社会構造を維持し支配する国家や大資本企業を揚棄しなくてはならない。ただ、行動するにあたって鉄の規律や秩序を構築してはならない。新たな社会構造の建設という共通の目標があるだけでいい。近代的な都市の労働者は、それが非常に胡散臭いものであると考えながらも、無条件かつ無意識的に基本的人権や自由を享受しているからである。鉄の規律や秩序は非常に厄介なものである。
 また、観念的で首尾一貫した闘争理論も必ずしも必要とは言えない。状況によっては、それが足枷になることも考えられる。状況に応じて、最も適切な瞬間に、現実に裏打ちされた労働者なりの行動に出ればいいだけである。
 だが、そのような行動は、全世界的に同時的なものでなければならない。国家や大資本企業は一つではない。非常に関係的なものである。ある国で革命によって国家が解体されたとする。しかし、解体された国家は一つであって、その周りには数多くの国家があり、それらが革命主体を取り囲むことになる。数多くの国で革命の機運が高まらなければ、革命主体を取り囲む数多くの国家の影響力は非常に大きい。革命主体に攻撃を仕掛ける可能性も考えられる。その場合、どう対応すべきか? 非常に難しいものである。この場合、革命の機運が高まっているのは、俯瞰的に見ると、ほんの一部に限られている。革命は失敗に終わるか、数多くの国家に対抗すべく、より強固な国家を建設するかのいずれかである。国家を再建設する場合、それは数多くの国家を敵に回している以上、以前のものよりも災厄を招くことも考えられる。様々な意味において。とにかく、全世界的な革命の機運が高まるまでは、古い制度の許で、それを利用しながら、抗議の声を上げていく他はない。負担が大きいことは承知である。
 松田の兵士観は、私に対して、革命に向けての様々なヒントを与えたが、時代が大きく異なり、また、農村が減少し都市が増加している以上、そっくりそのまま受容する訳にはいかない。

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