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塙眞・篠原裕・金子弘道「農本主義者・橘孝三郎の『土とま心』に学べ」(『維新と興亜』第16号、令和5年1月号)

 かつて日本には農本主義的な思想を掲げ、文明の転換を模索した思想家たちがいた。橘孝三郎もその一人である。新自由主義的な路線が強まり、日本の農業が危機に陥る今、橘の思想から何を学ぶべきなのか。橘の孫の塙眞氏、橘門下の篠原裕氏、金子弘道氏に聞いた。

「愛と誠を尽くして、神に仕える。これが真の人間のあるべき姿だ」


── 御祖父様はどのような経緯で農本主義思想を抱くようになったのですか。
塙 祖父橘孝三郎は大正元(1912)年、旧制一高(後の東京大学教養学部)に入学しましたが、人生問題に悩んでいました。「人間はどう生きるべきか」を考え、苦悩していたようです。大正3年に一高を中退し、早稲田に入ろうとしましたが、結局悩んだ末に、茨城県常盤村新原(現水戸市新原)に帰郷し、翌大正4年に農業を始めたのです。
 自分で食べ物を作り、それを食する。それが人間本来の在り方ではないか。祖父はそう考えたのです。「神に仕え、農業に仕え、真に人間らしい生活をしなければならない」と。
 祖父は、一高時代に、後輩の林正三からミレーの「晩鐘」を見せられていました。教会から聞こえる夕刻のアンジェラスの鐘の音色に合わせ、神へ祈りを捧げる農夫婦を描いた作品です。祖父は、「晩鐘」に描かれた農夫婦の姿から、「愛と誠を尽くして、神に仕える。これが真の人間のあるべき姿なんだ。できたら自分もそう生きたい。あのように生きたい」と考えるようになったのです。
 一日畑仕事をして、夕暮れに祈りを捧げて神に感謝する。祖父にとっては、それが「土とま心」だったのです。後に祖父は、「農耕は最も聖なる仕事である。……神仏は常に我々に正しきを欲している。されば我々は最も正しい生活として農業を選ばねばならぬ」とも述べています。
 祖父の母方、綿引家は農業を営んでいましたので、農業の何たるかは知っていたようです。祖父は自ら松や雑木林を切り倒して開墾し、農業を始めました。そんな祖父に強く共鳴したのが、次兄の徳次郎です。
 大正6(1917)年には、林正三も祖父の考え方にひかれ、新原に移ってきました。正三は、祖父の妹・うめと結婚しました。やがて正三の弟・正五も移ってきて、祖父の妹・すゑと結婚しました。こうして兄弟を中心する共同体が形成されるようになり、「兄弟村農場」と呼ばれるようになったのです。
 大正15(1926)年には、東京音楽学校を卒業した、祖父の末妹・はやも新原に引っ越してきました。兄弟村の人たちは、はやが弾くピアノに合わせて讃美歌を歌うようになりました。
 祖父は、資本主義は「徹底的破壊過程」に過ぎないと批判するようになり、「土に還れ」と訴えました。一方、祖父は農業をはじめてから、マルクス主義思想も批判的にとらえるようになりました。マルクス主義は工業中心の思想なので、農本主義的な思想とは相容れないからです。
── 橘先生は、どのような農業の在り方を理想と考えていたのでしょうか。
塙 兄弟村に集まった人たちは、農業は営利ではいけないと考えていました。孝三郎の次兄・徳次郎は茨城県岩間町で自ら牧場を開拓しましたが、現在農業団体組織が休耕地を買い占めて進めている大農式の経営を、徳次郎の後継者は批判的に見ています。
── 現在の日本の農業に橘先生の考え方はどう生かすことができるのでしょうか。
金子 日本の農業が厳しくなった原因として、関税の引き下げなどが指摘されますが、最大の原因は為替だと思います。日本の農業の仕組みは、1ドル=360円時代に作られたものです。ところが、2011年には1ドル=75円台まで円高になりました。つまり、アメリカの農産物の価格は5分の1近くに下落したということです。
 橘先生が理想とした協同組合組織の在り方と実際に農協がやっていることは全く異なると思います。農協は次第に金儲けに走るようになってしまったからです。
 現在、成功している農家は大家族農業でやっています。群馬県の昭和村の野菜くらぶもその一つです。株式会社として規模を拡大していますが、家族経営という理念を維持してます。

愛郷会が掲げた大地主義・兄弟主義・勤労主義


── 橘先生の思想はどのように形成されたのでしょうか。
塙 祖父は、ベルグソン、クロポトキン、カーペンター、トルストイ、マルクス、ロバート・オーエンなど幅広い思想を吸収していました。一高には、「橘孝三郎は図書館にあるすべての本を読破した」という伝説も残っています。祖父は常々「ベルグソンは読め」と言っていました。後に祖父は「天皇論」においても、「ベルグソン哲学は皇道哲学に近い」と書いており、一貫してベルグソンの思想的影響を受けていたようです。
── 愛郷会はどのような経緯で結成されたのですか。
塙 那珂郡五台村の五台小学校で教師をしていた後藤信彦は、父武彦から兄弟村のことを聞き、度々兄弟村に足を運んで祖父の話を聞くようになりました。大勢の人に祖父の話を聞いてもらいたいと考えた信彦は、昭和4(1929)年6月、五台小学校で祖父の講演会を開催したのです。これをきっかけに、後藤信彦と兄・圀彦らが協力し、兄弟村を母体として啓蒙組織を作ろうという気運が盛り上がり、同年11月23日、新嘗祭の日に愛郷会が川田村で組織されたのです。
 祖父は、「愛郷」とは「まごころ」と「愛」を持った以下の三大主義に基づいた人間のふるさとだと述べました。
 1 「大地主義」 大地を離れては永遠たり得ない。土・農業を基として国を建てる。
 2 「兄弟主義」 人間すべて兄弟のような生活、相互愛・相互信頼を基本として生活する。
 3 「勤労主義」 心から真面目に天職使命を果たす。
 愛郷会発会宣言には次のように謳われています。
 「どうしても我々人間は、天地大自然の恩恵のある所に依らねばならない。どうしても我々人間は、我々人間同士の団結にたよらなくてはならない。天地大自然の恩恵と人間同士の団結、即ち土と隣人愛、そこに我等が心から希い求むるふるさとがある。この我等が心から希い求むるふるさとを求むる心こそ、我等の内に光って我等を導く愛郷の真心に外ならない。……しかも、この愛郷の心、この真心、そしてこの愛郷の真心こそは、根源に於て神より出でたものである。……」
 愛郷会の本部は兄弟村に置かれ、昭和7年までに24支部、会員数は500人に拡大していきました。祖父は、西洋唯物文明の浸透によって、物質至上主義、金銭至上主義が強まり、日本国内が精神的に荒廃しつつあるという危機感を高め、昭和6年には愛郷塾を設立しました。

橘孝三郎と三島由紀夫の天皇論


── 三島由紀夫は橘先生の思想から影響を受けていたのでしょうか。
篠原 影響を受けていたというよりも、大嘗祭の解釈など二人の天皇論には重要な共通点があり、合致していたと言った方がいいかと思います。ただ、橘先生は三島先生に天皇論5部作を贈っており、楯の会の軍師といわれた山本舜勝氏はその著書の中で、「……それは、その直前(昭和44年10月)に読了したという橘先生の大著、『神武天皇論』の読後感も添えられ……」と記していることから、橘先生の天皇論が三島先生の天皇論に影響を与えた可能性は充分考えられます。
 橘先生は天皇論の中で、大嘗祭の本義について、一般に言われているように、新穀を以て天照大御神、天神地祇を奉斎する一世一度の儀式・新嘗祭ではない。ふしおろがむものは新稲(御飯)のみである。天皇は稲の精霊即ち穀物神であり現人神である。大嘗祭はいわば天皇の現人神就式である、と記しています。
 橘先生は三島先生の言動に深い関心を寄せており、自身の孫を始め5名の門下生を楯の会に参加させました。特に一期生20名のうち門下生が4名を占めていました。
── 『土とま心』はどのような経緯で創刊されたのですか。
篠原 同誌は橘先生の思想を改めて研究するために、橘先生存命中の昭和48年8月に創刊されました。娘婿で高弟の塙三郎さんが編集した創刊号には、橘先生の「天皇道」、松沢哲也の「愛郷会運動と農村青年社運動」、保坂正康の「橘孝三郎を取材して」、山崎博の「橘孝三郎と五・一五事件」などが掲載されました。
 第2巻以降は楯の会一期生の阿部勉さんが編集しましたが、第2巻は橘先生の追悼特集号となってしまいました。「土とま心」は第7巻まで続くのですが、第7巻は「楯の会事件10周年記念号」と題し、楯の会一期生の倉持清氏(現姓本多)に対する三島先生の遺書が「K君への遺書」として初めて全文公開されました。
── 橘先生の思想を、現在どう活かせばいいのでしょうか。
塙 祖父はシュペングラーの『西洋の没落』を読めと言っていました。いま西洋の唯物主義、科学万能主義が行き詰まる中で、祖父が唱えた思想が文明の在り方を見直すヒントになるのではないでしょうか。

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