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櫻井颯「犬養孝博士の足跡を仰ぎつつ現代維新を考へる」(「日本再建」懸賞論文・優秀賞受賞作品、『維新と興亜』別冊)

はじめに


 「自然と歴史のかなしみが我が身の悲しみとならなければ日本の美はなしくずしにくずされてゆくにちがいない」
戦中より熊本「神風連」烈士たち全員の墓所を一人で探し求めて歩き、終戦に際しては藤崎八幡宮に「尊皇義勇軍」を結成した壮士・荒木精之氏は昭和四十五年五月の『日本及日本人』への寄稿「野山のなげき」の末尾をかう結んだ。
 熊本市の桜山神社境内には、神風連烈士たちの墓とともに荒木氏が建てた「神風連資料館」があり、私はそこで冒頭の一文にふれて深い感銘を受けたことをおぼえてゐる。書は、荒木氏の銅像の真上に色紙で掲げられてをり、その脇には豊饒の海の第二巻『奔馬』執筆の取材のために熊本を訪れた三島由紀夫氏を荒木氏が案内する写真も展示してあった。

 日本を守るとは、日本の美を守ることである。そのために必要なものを、荒木氏は「自然と歴史のかなしみ」を「我が身の悲しみ」とすることであると論じてゐる。軽薄な愉しみでも、腹黒い憎悪でもなく「かなしみ」であると論じてゐることに注目したい。
 この感興は川端康成の論じた「かなしみ」に通ずるものがあると思はせるものがある。

 私はもう日本のかなしみしか歌はないと、敗戦ののち間もなくに、私は書いたことがある。日本語で「かなしみ」とは、美といふのに通ふ言葉だが、その時は、かなしみと書く方がつつましく、またふさはしいと思つたのであつた。(「ほろびぬ美」)

 「自然と歴史のかなしみ」を「我が身の悲しみ」とする。それは当世流の、やれ隣国のどこそこが気に入らないとか、特定の神社さへたまに拝んでをれば愛国者であるとかいふ、誰かの受け売りの、変にパッケージ化された、空虚なかはりに力みかへった愛国論とは、かなり乖離したものの見方であるやうに思ふ。しかし、こと「国」に限らずとも、ものごとや人を「愛する」とは元来さういふものではなかっただらうか。よくわかってゐないものを深く愛することはできない。また、自らが愛するものをわざわざ口にするとは、どことなく照れくさく、そんなに簡単に言葉にできないですねといふ類ひのものではないか。
 私はパッケージ化された空虚な愛国論には辟易してゐる者の一人であるが、その一方で、骨がらみで国を愛さずにはゐられぬ人々の、当事者性のあふれた、慎み深くも歴史の重みを感じさせる言葉には真摯に耳を傾けたいと思ってゐる。さういふ言葉にはどこか、胸がギュッとしめつけられるやうな、照れくさくとも心がホカホカするやうな、しみじみと沁み通ってくるやうな、無性にさめざめと泣きたくなってくるやうな響きがこもってゐるものである。
 さういふ言葉を時に丁寧に紡ぎ、時に野山に力強く投げかけた日本人の一人として、ここに大阪大学・甲南女子大学名誉教授であった万葉学者の犬養孝博士(明治四十年~平成十年)の足跡を仰ぎたい。

万葉歌碑と「犬養節」


 犬養博士は明治四十年の生まれで、熊本の旧制五高を経て昭和七年に東京帝国大学文学部国文科を卒。旧制中学・旧制高校等の教諭をへて、昭和三十一年から四十五年に大阪大学教授をつとめ(この間三十七年に文学博士号を取得)、同大学で名誉教授となり四十六年から五十六年までは甲南女子大学教授をつとめ、昭和五十六年に同女子大で名誉教授となった。昭和六十二年に文化功労者として表彰され、平成十年に死去。奈良県明日香村の名誉村民であるが、市町村合併の際に「明日香村」の村名を提案したのも犬養博士とのことである。明日香の地には博士を顕彰して「南都明日香ふれあいセンター・犬養万葉記念館」が平成十二年に開館してゐる。
 犬養博士の真面目は、万葉研究の第一人者として、万葉故地を自らの足ですべて訪れ、また昭和二十六年から五十二年間二百七十回に及ぶ「大阪大学万葉旅行」を指導し(博士は第二百六十回「最後の講義」まで直接指導した)、さらには万葉故地に多くの直筆歌碑を建て、「万葉風土学」と自ら称してゐるが、戦後日本に全身全霊をかけて万葉集を伝道したことにある。
犬養万葉記念館の入り口そばには
「萬葉は青春のいのち/孝書」
といふ碑があり、また館内には博士の記した色紙
「初恋を思ふべし/カーペンター 藤村の愛誦せる語を録す/孝書」
が展示されてゐる。博士は、まさに万葉集への初恋を一生をかけて貫徹したと言って良いのではないか。
 博士の遺した歌碑については、『犬養孝揮毫の万葉歌碑探訪』といふ本に、美しいカラー写真の数々と解説を添へて詳しくまとめられてゐる。同書は四百頁近い分厚い本で、紹介されてゐる歌碑は百を悠に越えてゐる。
 高度経済成長は日本の野山を切り刻んだ。昭和三十年代後半から開発の波が万葉のふるさと・明日香にも押し寄せ、明日香の中心にある甘樫丘の上にさへホテル建設をもくろむ業者があらはれたといふ。昭和四十年から大阪大学の「万葉旅行」の百回と、犬養博士の還暦を祝っての記念行事が議論され、甘樫丘に万葉歌碑を建てることが決まった。博士は当初「私の万葉歌碑など無い方がよい。もしどうしてもと言うのなら、どこか遠い岬の草むらがいい」といふことを口癖のやうに繰り返してゐたが、無謀な開発から万葉風土が守られるならばと考へを改めたといふ。また甘樫丘の地権者全員も明日香乱開発の防波堤となるならばと歌碑建立を快諾したといふ。かくして昭和四十二年十一月十二日に建立された最初の歌碑が、

「志貴皇子
婇女乃
袖吹反
明日香風
京都乎遠見
無用尓布久
孝書」
(采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたづらに吹く/志貴皇子)

であった。除幕式では、この日のために黛敏郎が作曲した「犬養孝先生還暦記念のために捧げる萬葉歌碑のうた(志貴皇子のうたによる)」が大阪大学混声合唱団によって披露されたといふ。
 以後、犬養博士御生前の約三十年間、また歿後にわたっても万葉歌碑の建立は続き、大和・近畿のみならず東国や北陸、内海・九州にいたるまで全国各地に百以上の碑が建った。博士の書は、質実かつ温もりのある字で、原則として万葉仮名による表記にこだはってをられることが印象的である。
 また、万葉の歌をただ目で読み、学生に解説し、揮毫するのみならず、ご自身特有の節回しで朗々と朗誦してみせたのも犬養博士の万葉学への取り組み方の大きな特徴で、その歌声は「犬養節」と呼ばれた。もちろん、万葉時代当時の歌人たちがどのやうな節回しで自作の歌を歌ってゐたのかを直接知る由はない。しかし、彼らが朗々と言霊を日本の野山に響かせてゐたことは間違ひないことである。犬養博士もまた、勁く温かい歌声で千三百年前の歌を野山に響かせた。犬養万葉記念館を訪ねると、館内では今も「はるーすぎーてーェ」「いわーばしーるーゥ」、と博士の凛凛たる歌声を聴くことができるし、また「NHK人物録」その他ウェブサイトで犬養節を堪能することは可能だ。是非、読者諸兄にお聴き頂きたい。
 卑近な話で恐縮だが、私も大学浪人中に市中の図書館の視聴覚室で犬養博士が出演・講義してゐたNHK「ビデオ紀行 万葉の海山」のVHSを見つけ、食ひ入るやうに視聴し、日本の古く美しい歌の数々と、その調べを産み出した大和の地への憧憬をつのらせ、浪人の屈託をまぎらせたことがある。さういふ意味では、生前の犬養博士に直接ご講義を頂くことはかなはなかったが、私にとって博士は恩人の一人といふことになる(明日香の地を訪れ、特に大和三山をのぼるなどしてみたいといふ若い夢は、十年近くの時を経てやっと今年かなへることができた)。

甘樫丘での御進講


 前項では大阪大学その他で多くの日本人にいかに犬養博士が万葉集を講義したかといふことを紹介したが、博士は昭和天皇、徳仁親王(当時、今上陛下)に対しても御進講の機会があり、その深く豊かな交はりには目を瞠らされるものがある。
 昭和五十三年十月、学習院高等科二年の修学旅行で飛鳥から吉野を訪ねた徳仁親王を、犬養博士が終日案内した。その時の思ひを、親王は翌年一月十二日の歌会始(歌題「丘」)で御歌に詠まれた。
「甘樫の丘の上に聞く師の御声遠き昔を思ひめぐらす」
 召人として歌会始の場に臨んでゐた犬養博士の恐懼はいかばかりであっただらうか。博士の「應制歌」もまた甘樫丘を詠んだものであった。
「大王の國見立たししこの丘に愛しきかもよさわらびの萌ゆ」
 犬養万葉記念館には、両歌を犬養博士が恭しくしたためた色紙が並べて飾ってある。
 また、昭和五十四年十二月四日、午前九時五十一分から十時十五分にかけての二十四分間、犬養博士は甘樫丘の上で昭和天皇に親しく御進講を行った。
 「陛下、あれが三輪山、あれが香久山でございます。《大和には群山あれどとりよろふ天の香久山…煙り立ち立つ海原はかまめ立ち立つ…》って歌そのまま、あの和田池にカモメが飛んで来たので、喜んで村の人に話しますと、「そりゃ養魚池だ、大変だっ」て、おっぱらっちゃったんでございますよ」
といふ、立て板に水の、ユーモアまじりの東京弁の御進講に「陛下、大いに笑う」と読売新聞は見出しを立てた。また、故あって歩行に困難を生じてをられた香淳皇后も、御進講と同時刻にホテルで犬養博士のカセット「万葉の心」を聴いてをられたといふ。
 当日夜、犬養博士は入江相政侍従長に電話をかけ、本来は侍従長を介して渡すべきプリントを陛下に直接お渡ししてしまったこと、東京弁の俗語を使ってしまったことの非礼をわびた。「陛下は大変お喜びだったので、気になさることありませんよ」との返事であったといふ。昭和天皇にとっても犬養博士の御進講は格別に印象に残ったやうで、五十五年元旦には
「甘樫丘にて 犬養孝古歌を朗詠す
丘に立ち歌をききつつ遠つおやのしろしめしたる世をししのびぬ」
との御製を詠まれてゐる。
 昭和天皇がどれほど犬養博士の御進講をお喜びであったか、一目瞭然の写真が犬養万葉記念館の館内に掲げてあるのでご紹介したい。
 以下は、三年前に私がその写真をはじめて拝した折の感激を詠んだつたない歌である。(『不二』令和元年十月号にご掲載頂いた)
 「(詞書)昭和五十四年、甘橿丘で犬養孝博士の御進講をうけ優しく穏やかな笑顔を湛へられる昭和天皇の御写真を「犬養万葉記念館」に拝し目頭が熱くなる
大君は神にしませばいにしへの飛鳥の風を聞こし食すかも」
ともすれば近代の天皇は軍服に身を包み、軍馬にまたがった統帥権者としてのイメージで語られがちである。それが近代の日本人の強い要請によるものであることも事実であらうが、ために宸襟に特有の苦悩を生じせしめたことは、折口信夫博士が昭和十六年に
「大君は 神といまして、神ながら思ほしなげくことの かしこさ」(『天地に宣る』)
と詠んだことを振り返らずとも明らかである。だが、甘樫丘で見せた昭和天皇の晴れやかな笑顔は(竜顔をあれこれと論評することはまことに畏れ多いことながら)さうした「なげき」とは無縁のものと拝察申し上げた。
 今年の一月二十七日、私は犬養万葉記念館を訪ねたあと、浪人時代以来十年の夢を叶へて甘樫丘にのぼり、落陽が畝傍山や葛城山のうしろに隠れるまで数時間、見れど飽かぬとずっと眺めてゐた。私もまだ数へで三十の歳であるが、やがては老い、土に帰る日が来るのであらう。しかし、万葉人が見、昭和天皇と犬養博士が見、私が見、そして未来の日本人が見るであらう甘樫丘からの情景は不変のものだ。そのことを思へば、簡単には言葉にできぬながら、心がホカホカするやうな思ひがした。偶然か神縁か知らないが、ずっと夕焼けの空を眺めてゐると、雲がまるで畝傍山の真上で羽ばたく「飛鳥」の形となった。その雲が、私に何かを語りかけてゐるやうに思へてならなかった。

むすびに


 「もう一度維新を興すために、いま訴えたいこと」といふのが懸賞論文のテーマであったので、最後にこのテーマについて記したい。
 大上段の物言ひになるが、他人や他国をそしる前に、まづ日本人自身がどれだけ全き日本人であるのか、胸に手を当てて自問することこそが、今「維新」を志向する人間に求められてゐるのではないだらうか。日本人がこの日本列島で、あるいはアジアで、世界で、何をやってきたのか。誇るべき、世界に冠たる歴史もあれば、赤面を禁じえない、屈辱的な歴史もある。建国以来二千七百年近くに起こってきた善も悪もすべてひっくるめて自分自身の問題として受け入れ、民族のかなしみをわが悲しみとすることが、日本の美をなしくづしにくづさぬための第一歩なのではないだらうか。
 この拙い一文の中で紹介してきた荒木精之氏や犬養孝博士については、浅学の私などよりもずっと深く学んでをられる方もいらっしゃることと思ふ。だが、片や神風連の墓を一人で探し歩き、片や万葉故地に多く自筆の歌碑を遺された先蹤に、少しでも報いる生き方がしたいとの私の気持ちに何かを感じて頂ければ幸ひである。
 極論をいへば、維新といったところで別に幕末志士のやうな袴も髷も必要ない。形式やスローガンが大事なのではなく、ジーンズでスマホを常用してゐようと、心に褌を締めることを忘れないこと、よい歌詠みであらうと心掛けることが大事なのだと思ふ。決して人を斬ったり建物に大砲を撃ち込んだりするばかりが維新運動ではない。自分自身がより良き日本人であらうとすること、周囲に日本人の物語を伝へること、私にとってはそれが常在戦場の維新運動なのである。

〔主要参考文献〕
犬養孝・山内英正『犬養孝揮毫の万葉歌碑探訪』平成十九年、和泉書院
山内英正『犬養先生と飛鳥 寄稿・犬養先生を語る』令和四年、犬養万葉記念館

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