西村眞悟(元衆議院議員)「天皇を戴く国(三) 『天皇』は縄文時代の定住共同生活と神々との共生から生まれた」(『維新と興亜』第11号、令和4年2月発行)
期せずして甦った太古の日本の姿
昭和三十六年から四十二年まで、筆者は中学高校時代を過ごした。この期間の日本史の教科書は、大陸や朝鮮半島から稲作が伝わった弥生時代から「日本の歴史」が始まったように書いてあったと記憶する。それ以前の日本列島は、「原住民」(先住民族)が住む歴史以前の扱いであった。つまり、考古学の対象であっても歴史学の対象ではなかった。弥生時代までしか我が国の歴史を遡れないのならば、二千年後の二十世紀の大東亜戦争を、「欧米の自由主義国家とファシズム国家日本の戦争」としか理解できず、一神教世界と多神教世界の「文明の転換の始まり」と捉えることなど到底出来ないのも無理はない。
ところが、筆者が中学高校時代を過ごしていた頃から加速した我が国の高度経済成長は、日本全国津々浦々を、宅地開発、道路建設、工業団地建設で掘り起こし始めた。その結果、期せずして、世界の人類史において独特で希有な太古の日本の姿が甦ったのだ。則ち現在、日本全国から一万五千年前から二千三百年前までの一万二千七百年の長期間に及ぶ農耕社会以前の縄文時代の八万八千箇所の集落跡、二千四百箇所の貝塚そして、二百箇所の低湿地遺跡と、それ以前の旧石器時代の遺跡も多数見つかってきた。
これらの遺跡は、日本においては、農耕が始まる前に、人々は狩猟と漁労と採集によって、自然と共存しながら集落をつくって、一万年以上の長期間にわたって定住生活をしていたことを示す驚くべき物証である。この期間を、土器の特徴から縄文期と呼ぶが、世界の諸民族の中でこのような縄文期を経験したのは日本人だけである。我々は、この発掘に参加してきた同世代の多くの考古学徒の努力に敬意を表し感謝するとともに、現在も、全国各地の数百箇所で旧石器、縄文、弥生、古墳時代の遺跡の発掘作業が、数千人の人々によって行われていることに注目しなければならない。
さらに、特筆すべきは、地層によって正確に年代が判明する関東ローム層地域から、世界最古の磨製石器(石斧、三万二千~三万年前)が多数発見され日本列島の旧石器文化層が確認されたことだ。以後、この磨製石斧は東北地方から南九州に至る広大な地域で数多く発見されている。また、青森県の大平山元遺跡からは世界最古級の一万六千五百年前の無文土器が発見され、北海道函館市の垣ノ島遺跡の土壙墓からは、約九千年前の漆を塗った工芸品や装飾品、髪飾り、腕輪などが見つかり、福井県鳥浜貝塚からは一万二千六百年前の世界最古の赤色漆塗櫛が見つかっている。これらの事実は、旧石器時代から日本列島は、当時の世界の中で、高度な最先端技術を生み出す文明をもった地域だったことを示している。
さらに、北海道洞爺湖の入江貝塚からは、埋葬された二十歳くらいの女性の、ポリオ(小児麻痺)によって変形した骨が見つかっている。これは、ポリオによって立つことができなかった女性が、家族や集落の人々の介護を受けて二十歳まで暮らしていたことを示す物証だ。同様のポリオで変形した人骨は、栃木県の前期の遺跡や岩手県の晩期の遺跡でも確認されている。これは縄文時代に、相互助け合い(福祉)があったことを示す非常に尊いものだ。兄が歩行困難な小児麻痺であった筆者は、この縄文の情景が子供の頃の兄を見ているようで心に沁みる。また、函館市の垣ノ島遺跡からは、亡くなった赤子の手形や足形をつけた粘土板が見つかっているが、子を失った親の悲しみは、現在も縄文時代も変わることのないことを伝えている。
世界遺産となった青森の三内丸山遺跡の発掘に携わった考古学者で縄文研究者の岡村道雄氏は次のように記している(同氏著『縄文の列島文化』)。
「学問的な時代区分である縄文時代は終わっても、縄文的生活文化は、地域や都市と村、海や山などでの違いがあって、変質の程度もさまざまであるが、昭和三十年代からの高度経済成長、列島改造などまでは色濃く保たれていたことを強調したい。」
さらに、三千二百年前の田圃跡地が発見されて、縄文時代から耕作が行われていたことが明らかになり、従来の渡来した弥生人が稲作をもたらしたという説が否定された(仙台市、富沢遺跡)。また、我が国の遺跡は、縄文時代と弥生時代が別々にあるのではなく複合的にある。例えば富沢遺跡は、旧石器時代から縄文そして弥生の遺跡が層を成しており、旧石器時代と縄文時代と弥生時代の断絶は無い。つまり日本列島では、石器時代から一万数千年の縄文時代を生きた日本人が、そのまま弥生時代を生き、古墳時代を生きて現在に生きているのだ。その日本人は、一貫して山川草木森羅万象に神々がおられると思う人々である。則ち、一万数千年に及ぶ縄文時代は「日本」を形成する母体である。従って、日本が「日本」である為の尊いご存在、則ち「天皇」は、縄文時代の定住共同生活と神々との共生のなかから生まれてきた。
とはいえ、発掘された頭蓋骨を縄文と弥生で比較して、両者は人種が違うという説がある。しかし、時代が変われば風貌が変わることは、現在の我々が目の辺りに観ていることではないか。旧家に伺って明治時代の当主の顔写真を見て、今を生きる曾孫の顔と比べれば、縄文人と弥生人ほど違う。各家の明治時代の先祖の顔は、下駄のように顎が角張っているが、現在の顔は卵顔である。浮世絵でも、庶民の顔は顎が張っているが、大名や美女の顔は顎のない卵形だ。時代や場所が変われば、顔の形も変わるのだ。
縄文時代に実践されていた平和な長期間の定住生活
C・W・ニコル(昭和十五~令和二年)という日本人になった作家がいた。彼はウェールズに生まれたが、母方の祖父はケルト化したノルマン系なので自分にはケルトの血が流れていると思っていた。彼の少年時代の忘れ得ない記憶は、可愛がっていた犬が死んだときのことだ。彼は、キリスト教イングランド国教会の牧師に、「僕の犬も天国に行くか」と尋ねた。牧師は怒って「魂の無い犬など天国に行くはずがない」と言った。それに反論すると、牧師に殴打された。この体験が、ニコルが日本に来て日本人になった原点だと思う。日本では、犬も神になる。つまり、ニコルのケルトの血が、多神教の日本の風土と共鳴し、彼に日本が故郷だと思わせたのだ。ある時、彼が日本人と共に縄文時代の遺跡を訪れた時、「この遺跡を造った人は、何処に行ったのだろう?」と日本人が呟くと、彼は、「あなた方の血の中にいるよ」と答えた。ニコルのケルトの血が、直感的に縄文時代が日本の母体であることを見抜いたのだ。
この度、世界遺産となった北海道と北東北の三内丸山遺跡など十九箇所の縄文遺跡群は「顕著な普遍的な価値」があると認められた。その評価は、次の通りだ。
この縄文遺跡群は、一万年以上もの長期間継続した狩猟、漁労、採集を基盤とした世界的にも希有な定住社会と、足形付土版、有名な遮光器土偶等の考古遺物や墓、捨て場、盛り土、環状列石等の考古資料で明らかなように、そこで育まれた精緻で複雑な精神文化を伝える類いなき物証である。この縄文遺跡群は、定住の開始から、その発展、最終的な成熟に至る迄の集落の定住の在り方と土地利用の顕著な見本である。縄文人は、農耕社会に見られるように、土地を大きく改変することなく、変化する気候に適応することで、永続的な狩猟、漁労、採集の生活の在り方を維持した。
このように、我が国は、農耕が始まる以前の一万年以上の長期にわたる縄文時代に、世界の先進諸民族が経験することができなかった自然と共生して一体となった平和な長期間の定住生活を実践してきた。それ故、その定住跡には、祖父母、夫婦、子供が入れる広さの土屋根竪穴住居が建ち並び、その集落はオープンで敵から守る外壁はなく、もちろん、騒乱の痕跡も無い。また、ファラオのような絶対的権力者がいた痕跡もなく、他の世界では当然とされる奴隷も存在しない。人々は、文字は使わず「大和言葉」を話していた。その一万年のなかで、神々の神話が伝承され天皇が生まれた。そして、フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの言う、「歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいることができる日本」が生まれた。しかも、この「日本」は、日本列島でしか誕生しない。従って、一千五百万年前にユーラシアの大地の東端に南北の亀裂が走り、海に囲まれた日本列島が誕生したことが、「日本」の誕生の始まりである。
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