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山平重樹「反体制右翼としての誇りを」(『維新と興亜』令和5年5月号)

鈴木邦男・野村秋介対談「反共右翼からの脱却」


── 山平さんが、平成元(一九八九)年に著した『ドキュメント新右翼 果てなき夢』(二十一世紀書院)は、平成三十(二〇一八)年に、新たに書き下ろした序と終章を加えて復刻されました。
山平 私自身も法政大学の学生だった昭和四十七(一九七二)年に、日本学生同盟(日学同)に入り、運動をしていました。その運動とは何だったのかを、自分なりに総括したいという気持ちがありました。『果てなき夢』は、いわば自分のアイデンティティを求めるために書いた一冊です。
 一九六〇年代から七〇年代は、まさに「左翼にあらずんば人にあらず」といった空気が横溢し、新左翼運動が猖獗を極めていました。特に一九六〇年代後半には、明日にも左翼革命が起きるのではないかという時代状況でした。そうした状況は私が育った山形の田舎にいても実感できました。
 民族派の学生運動に入ったきっかけは、いうまでもなく昭和四十五(一九七〇)年に起きた三島由紀夫・森田必勝両烈士による事件の衝撃でした。この事件に強い感銘を受けて民族派学生運動に飛び込んだ人は少なくなかったと思います。学生運動の大先輩である鈴木邦男さんは、やがて一水会を設立し、新右翼のスターとなりますが、鈴木さんの原動力も三島事件による衝撃だったそうです。
 私が出版した『ドキュメント新右翼』は、当初『ドキュメント鈴木邦男』とする予定でした。それほど鈴木さんにスポットを当てています。「果てなき夢」というタイトルもまた、鈴木さんが常々言っていた「日常生活にとって、われわれの民族派運動なんて、なければなくてすむもんだ。だけど、オレたちが夢見ることをやめたら、どうなる? 夢を見続けてこそ、オレたちの運動は持続するんだ」という言葉に触発されてつけたものです。しかし、その「果てなき夢」の行方というものは、鈴木さんの中で、だいぶ変容してしまったような気がしますね。
── ただ、戦後の既成右翼と一線を画した新たな民族派運動を牽引した功績は大きいと評価されています。
山平 もちろん、その功績は大きいですよ。鈴木さんは、自民党の院外団のような、財界べったりの既成右翼に対する明確なアンチを示しました。
 評論家の猪野健治さんは、「Y・P(ヤルタ・ポツダム)体制打倒」というスローガンを掲げた日学同や全国学協(全国学生自治体連絡協議会)などの民族派学生運動を、新左翼に理論的にも対抗できる勢力として「新右翼」と命名しました。
 昭和五十一(一九七六)年二月号の『現代の眼』誌上で行われた鈴木さんと野村秋介さんとの対談「反共右翼からの脱却」は、まさに新右翼の歴史において記念碑的なものとなりました。ここで、鈴木さんは、次のように語っています。
 「Y・P体制打倒にしてもその支柱をなしている安保と憲法の二つを同時に打倒する闘いであったはずなのに、一方の憲法の打倒は言いながらも、もう一つの安保の方は支持するんだと言う。こんなおかしな話はありませんよ。少々皮肉をこめて言えばこうした器用なまねが出来るようになった時から戦後右翼の堕落が始まったんだと思いますよ」
 これを受けて、野村さんは次のように応じます。
 「その堕落した姿勢はいまも続いているんですよ。反体制右翼としての誇りもなく、牙もすてて体制ベッタリになってしまった。だからどこかで踏みとどまらなくてはならないんですよ。そうでしょう。保守政党と右翼という本来相反するもの同士が癒着したまま続いてきてるんですよ。……Y・P体制打倒を言い、戦後体制からの脱却を言うのならば、安保と憲法を分けて考えるなんてことは絶対に出来ないはずですよ。少なくともそのスローガンを口先だけではなく、自分たちが命を賭して実現するんだという決意があるのなら『安保廃棄』ということをはっきりと打ち出すべきだと思うんですよ」
 この対談を読んで、新右翼の運動に飛び込んできた人も少なからずいたと聞いております。

「左翼血盟団」への共感


── 戦後右翼の多くが親米的になり、日米安保肯定の立場をとるようになる中で、この対談が与えたインパクトは大きかったでしょうね。
山平 鈴木さんは、安保と憲法の二つを同時に打倒しなければいけないと強調していたのです。しかし、やがて鈴木さん自身が護憲派になってしまいました。それが私ならずとも不思議な話で、何より「憲法改正」に生命を賭し、自決した森田必勝の衝撃、彼に対する負い目から鈴木さんは出発したのではなかったのか──との疑問はありますね。
 今の若い人には信じられないでしょうが、鈴木さんは若い頃は武闘派として知られていたのです。左翼のヘルメット学生が何百人もいる中に、数人で飛び込んで戦ったような人なのです。すぐ手が出ることで有名でした。ところが、やがて鈴木さんは暴力否定の立場に変わっていきました。
 鈴木さんは人間的には親しみの持てる方で、私もお世話になりました。著書の『連合赤軍物語』の解説を書いていただいたこともありました。だから、三月二十三日のお別れ会にも出席したのですが、私はそこで強い違和感を覚えました。追悼の挨拶をしたのは、福島瑞穂さんや鳩山由紀夫さんといった人たちであり、民族派の姿はほとんどありませんでした。鈴木さんの死去について大きく取り上げたのも、主に左派のメディアです。朝日新聞は天声人語でも取り上げました。なぜ、左の陣営にこれほど持ち上げられるのか、そしてまた、思想は違うといえど、〈赤軍派〉や〈狼〉に対する情念的なシンパシーというならまだわかりますが、それがなぜ鳩山や福島に行き着いてしまうのか、違和感というか、私にはまるでわかりません。
 鈴木さんは、昭和五十年に『腹腹時計と〈狼〉』を書いて注目を集めました。「狼」とは、一連の企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線〈狼〉のことであり、「腹腹時計」とは、このグループが「都市ゲリラ兵士の読本」として発行した彼らの〝経典〟を指していました。
 彼らはごく普通のおとなしい青年たちで、日常生活においても身を律したストイックな生活に徹していました。彼らは皆一様に青酸カリ入りのペンダントを持ち、うち一人は逮捕後に自決しました。猪野さんは、彼らを「左翼血盟団」と呼びましたが、そんな彼らの思想に殉ずる姿勢に鈴木さんも共感していたのでしょう。
 猖獗を極めた新左翼運動ですが、当時の学生運動なんて、ほとんどが時代の流行に乗っただけの遊び半分、いわばファッションといっても過言ではなかったと思います。そうした中で、〈連合赤軍〉や〈狼〉のように最後まで革命を目指し、命を賭け、行き着くところまで行った一群もある。そうした部分に心情的な共感があったというのは、私もわかります。

平泉澄門下と『論争ジャーナル』

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