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堀茂「日本は北朝鮮を見倣え」(『維新と興亜』第15号、令和4年10月28日発売)

「自主防衛」とは


 「自主防衛」とは半世紀以上前から我が国で高唱されてゐたスローガンである。当時は共産党の宮本顕治氏までが、それを主張してゐた。考へてみれば、防衛といふものを主体的に自身で行ふといふのは至極当然なことである。それを殊更「自主」といふ言葉を使はなければならなかつたところに我が国の特殊性がある。その根源は、やはり「現行憲法」の欠陥に求められるが、それを補ふ意味で日米安保といふものがある。
「自主憲法」制定と「自主防衛」は、かつてワンセットであつた。「自主憲法」なくして「自主防衛」なく、「自主防衛」なくして「自主憲法」なしである。だが、「自主憲法」があつても「自主防衛」は達成されないといふのは他国の例でも分かる。また「自主防衛」=日米安保破棄といふ意見もあつた。
しかし、「自主防衛」が必ずしも同盟を否定するものではないと思ふ。同盟関係が継続しても「自主防衛」は可能である。フランスなど元来「同盟すれど、同調せず(alliés, pas alignés)」である。勿論、何を以て「自主防衛」と規定するかの問題である。例へば、日英同盟は攻守同盟であつたが、我が国の主体性といふものは担保されてをり、その為に我が国防方針が歪曲されたといふことはない。
その主体性だけでは不十分な部分を補ふといふことが同盟であり、故に日米同盟といふフレームのなかでも「自主防衛」といふものは一考する必要がある。また別の議論として「自主防衛」の外に「単独防衛」といふことがある。
両者は似てゐるやうで厳密には違ふ概念であると思ふ。「自主防衛」は、同盟国との関係を排除しない。但し我が国のやうにその関係が実質的に対等でなければ、それは「保護条約」に近い。他方「単独防衛」といふのは独立を維持するため、外国軍による駐留はじめ自国の国防政策への容喙や関与を完全に排除し、かつ他国の軍事力に依存せず防衛を可能とする国家と規定出来る。かかる意味で、米国、中共、ロシアは「単独防衛」国家である。
ではNATO諸国はどうであらうか。彼らは須く米国の圧倒的な軍事力に依存してをり、米軍の駐留を積極的に受け入れてゐる。全て米国ありきである。集団防衛とは言ひ条、実質的にそれを担ふ国は極少数に限られてゐる。英仏の如く核保有国であつても、ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski)が云ふやうに、彼らも「自主防衛」国家といふより米国の「顧客国家もしくは「従属国家」と規定した方が正確であらう。
フランスが一時期NATOを離脱したのは、米国とは一線を画す国防政策を志向したからである。「フランスの栄光」といふ「自主防衛」国家を目指してゐた。だが、この政策は米国を激怒させ、後悔したフランスは、やがてNATOに復帰した。英国に至つては、長年「特別な関係」を構築してゐると云はれるが、現状は米国のジュニア・パートナーである。又英仏共に核保有国だが、米国の意図を無視して核攻撃は出来ない。事実上、核管理は米国とのダブル・キーといふことになるが、これにより核抑止力が無意味になることはない。

〝最悪の事態に備へる〟ことをしない日本


「核」といふものは極少数の戦術核であつても、巨大な抑止力を持つ。フランスが保有に拘り、北朝鮮が断固として放棄しないのも、この抑止力を理解してゐるからである。「北」のやうな経済的貧国にとつての核保有は、最小の経費で最大の外交的パワーと軍事的抑止力を得られる最良の策なのである。瞠目すべきは、彼らが圧倒的なコスト・パフォーマンスを以て、自身と自身の立ち位置を正確に理解してゐることだ。「北」は「核」の管理と使用を、他国の容喙なしで自ら実行しようしてゐる点から云へば、英仏より遥かに「自主防衛」国家と規定出来る。
「北」は他国による「核の傘」など端から信用してゐない。故に長年に亘り「核」の研究開発に注力し、その有用性とリスクを冷静に分析、それを着実に外交に結び付け実行して来た。既に彼らがICBMまで保有して、我が国や米国の脅威となつてゐる事に対して、我々はそれらを迎撃することで対抗しようとしてゐる。常識で考へても、このやうなことが完璧に出来るものではない。
それを明言しないのも問題だが、これまで憲法上の制約と「核」不在が所与のまゝ国防が議論され、かつ絶対平和主義の中での「核」への情緒的嫌悪が政治やマスコミを支配してゐたことが大きい。特に「核」に対する経験的怨念は、議論すら封殺した。念の為云ふが、「北」の軍事外交戦略を評価することと、その非民主的で専制的な体質を許容することは次元が違ふ。これは国防政策の戦略性の有無といふことである。
我々が最も知らねばならないのは、今想定してゐる我が国の「有事」がどういふもので、その際に自衛隊はどの位の期間、どうやつて戦ふのかといふことである。それが25万人足らずで、可能なのかどうか。また人が足りても、肝心の弾薬は足りてゐるのか。
そもそも我が国では有事といふもの自体が想定外なのである。我が国で云ふ「有事」とは、役人の「想定」によつて策定されてゐるものに過ぎない。一般論としても有事が想定を遥かに超える事態になることは歴史的常識である。
例へば、現在の防衛計画では多方面からの飽和攻撃など全くの慮外で、一箇所への攻撃が想定されてゐるだけである。それも数日間自衛隊が防禦した後に、米軍の来援を俟つて反撃するといふシナリオである。我々で全てやるなどとは端から思つてもゐないのだ。政治も国民も、それを当然と考へるナイーヴさと厚顔がある。
現実は逆で、米軍が動かないケースといふものを考へねばならない。かう云ふと約定(安保条約第五条)があるから大丈夫と政治家は云ふだらう。何といふ〝太平楽〟であらうか。本来、想定外のことを想定すべき処、我が計画に斯様な思考はなく、須く米軍は出動することになつてゐる。米軍が確実に動くのは、日本国内の自軍基地が攻撃された時だけである。要は我々のシナリオに〝最悪の事態に備へる〟(prepare for the worst)といふ基本が欠落してゐるのである。

核武装の本質的意味


戦力の本質とは、戦闘機の機数やイージス艦の隻数といふ「正面装備」の質と量だけではない、それを支へるマンパワー×弾薬数(燃料も含む)である。メディアも「正面装備」の比較しかしない。それらが幾ら立派でも、動かねば単なる鉄の塊に過ぎない。寧ろ旧装備であつても人と弾薬や燃料が潤沢な方が勝つ。加へて戦争への耐性といふか許容限度が問題である。国民の精神力といふことだ。
ヴェトナムもさうだつたが、分裂した国家はより貧しい方が強い。北朝鮮の国民は韓国の豊かさを羨望してゐるが、戦争への耐性がある。だが、「南」にそれはない。満たされた人々は戦争など欲しない。「北」は生きるか死ぬかである。強国に囲繞された貧しい国家にとつて、自身の旧式で脆弱な装備を補ふには、「核」のみが「自主防衛」の〝特効薬〟となるといふことを、国民も理解してゐる。
「北」にとつて「核」保有は軍事外交上の戦略としての抑止力獲得(特に対米)だけでなく、中共からの自立といふ側面もある。「核」を保有することで、より対等な関係に近づくことは明白であり、自律性も高まる。我が国のやうに幾ら最新鋭の通常兵器を揃へてゐても「核」が不在であれば、国家全体の戦略的抑止力といふものは向上しない。逆に「北」のやうに装備は旧式で貧弱でも少数の「核」が存在することで、抑止力のバランスは均衡に向かひ対峙することが可能となる。
元来「核」といふものは使用する為ではない、存在することに意義を持つ兵器である。勿論、絶対不使用といふことではないので、報復としての使用は確実にする〝肚〟もなくてはならない。「北」は、「核」保有をコスト・パフォーマンスのある、国家の自立性と戦略性を高める最高の「弱者の強者に対する抑止(dissuasion du faible au fort)」と理解してゐる。日米にとつて「北」は〝ならず者国家〟であることは間違ひないが、こと「核」に関する戦略的対応だけは我々も見倣ふべきである。


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