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《忘れられた》初録音

 フルトヴェングラーが手兵ベルリン・フィルを率いて独ポリドール社との初めての録音セッションに臨んだのは96年前の今日、1926年(昭和元年)10月16日のことである。この録音時、40歳という若さですでにトスカニーニと並び称されるスーパースターとなっていたフルトヴェングラーが満を持してレコード・デビューを果たす機会。しかも吹き込む曲目はドイツ音楽の真骨頂、ウェーバー《魔弾の射手》序曲とベートーヴェン《運命》だから、大々的な成功を誰もが期待していたろう。

 ところが、当時のポリドール社の録音技術の不備により、出来上がったレコードは全く期待外れの不鮮明な録音となり、評判も芳しくなかった。フルトヴェングラー自身もいたくその出来栄えに失望し、その後3年間は一切レコーディングを行わなかったほどだった。ポリドールもポリドールで、この不評なレコードをわずか2年かそこらでカタログから外し、1928年に録音されたリヒャルト・シュトラウス指揮の《運命》と差し替えるという仕打ちに及んだ。その後長きにわたる「フルトヴェングラーの録音運の悪さ」のルーツがここに始まったわけである。
 ポリドールはよほどこの「黒歴史」を消し去りたかったのか、戦後のLP時代に入ってからも、フルトヴェングラーの他の録音は貴重なドル箱としてさんざん再発を繰り返したにもかかわらず、この録音については一度も復刻・再発しなかった。CD時代になってもその状況は続き、21世紀に入ってようやくその一部が初めて再発されたが、全曲がリリースされたのはほんの数年前という有様であった。その間、独立系のマイナー・レーベルや愛好家団体が、現存する希少なシェラック盤から復刻したLPやCDを細々とリリースしていたが、ごく一部の熱心なフルトヴェングラー・マニアを除いてそれらはほぼ知られることなく、二十世紀最大の指揮者であるフルトヴェングラーのモニュメンタルな初録音は、一般の音楽ファンには全く忘れ去られたまま、現在に至る。
 上述のような事情から、この録音のオリジナル78回転盤は出回った数が少なく、骨董レコード市場ではかなりの希少・高額アイテムとなっている(数年前に某オークションで落札額が12万円を超えたそうである)。私も長年フルトヴェングラーの録音を愛聴してきたが、この《運命》については上述の複数の復刻盤でしか聴いたことがなく、実物にお目にかかる機会はついぞなかった。が、たとい純粋に演奏を楽しむ対象とは思えないアンティーク品であっても、フルトヴェングラーの記念すべき初録音を一度は手にし、その音に触れたいものだ――とはずっと願っていた。
 4か月ほど前、思いがけずその機会が訪れた。某オークションの出品をいつもの習慣でぼんやりと眺めていたところ、1926年録音の《運命》5枚組セットが出品されていたのである。どうせとんでもない高値で出品されているのだろうとページを開いてみて、目を疑った。どう見ても、1の後にゼロが4つしか並んでいない。何度も数え直したが同じである。しかも、オークションの終了までわずか数時間の段階で、入札者がひとりもいない。セットに1枚か2枚欠落があるのか、再生不能な傷ものが混じっている訳あり品なのかとも疑ったが、どう見てもそうではなさそうだ。
 恐る恐る、入札してみた。どうせ締め切り前には数万円に跳ね上がるだろうと覚悟していたが、数時間後、無事最初の入札額で落札した。競合者はひとりもいなかった。狐か狸に化かされているのか白昼夢を見ているのかと思った。もしかしたら、今日の今に至るまでそうなのかもしれないけど。
 なぜ入札者が私以外に誰もいなかったのか、今もって不思議で仕方がない。競り合っていれば貧乏な私は恐らくさっさと諦めて撤退していただろうに。たまたま、このレコードを欲しがりそうなコレクターがことごとくこの出品を見逃していたのか、気付かなかったのか。
 この話をFBの音楽コミュニティーで披露したところ、とあるベテラン・コレクターの方が「その盤は石村さんのところに来る《運命》だったんですよ。こういう稀覯盤が手に入るときはそういうものです」と仰っていた。
 この古い骨董盤が、ほぼ一世紀近い時をどのように経てきた末に今、私の手元にあるのか知る由もないが、1926年の今日、フルトヴェングラーとベルリン・フィルが響かせた音が蝋盤に刻みつけられ、96年分の時空を超えて今私の部屋に鳴り響いていると思うと、不思議な感慨に包まれる。
 以来、私は何度も繰り返しこの演奏を聴いて飽きるということがない。この貧しい録音から響いてくる不鮮明な空気の振動に耳を澄ませていると、どんな最新録音よりも、またコンサートホールに行けば聴ける生の音よりも《本当の》音に触れているような感覚に襲われるのである。 
 録音芸術というのは、不思議なものだ。


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