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“ブラームスはお好き?”――いえ、もう沢山です

 私は若い頃からブラームスが好きで、あれこれの曲をさまざまな演奏、録音で聴いてきた。今もそうなのだが、若い頃と比べると(当たり前のことだが)聴きたい曲の趣味・嗜好が幾分変わってきたように思う。

 昔好んでよく聴いたのは、交響曲第1番、2番、4番、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲第2番、ヴァイオリン・ソナタ第1番、2番、ピアノ・トリオの1番といったところだろうか。ご覧の通りその大半が通俗とは言わないが定番の名曲で、今でももちろん嫌いになったわけではないが、最近はどうもすぐに聴き飽きてしまうと言うか、身を入れて音楽に付き合い切れない感じがする。料理に喩えれば、どれも美味いことは美味いのだがどうも箸が続かず、すぐに食欲が醒めるとでも言おうか。

 逆に、若い時分にはいささか取っつきにくい、あるいは味わいや性格がはっきりせず魅力が劣る……と思っていた曲が、今では一番しっくり来る。ピアノ協奏曲なら第2番より1番、交響曲なら第1番や2番よりも3番にひかれるし、実際、ブラームスを聴きたいと思う時はまずこれらの曲の録音に手が伸びる。ただ、これらの曲を聴いて私が求めているものを満たしてくれる演奏は案外少ないので、聴くものは自然と限られてくる。《第3》については一番極端で、何かの目的や関わり合いがある場合は別として、ただ純粋にこの曲を聴きたいという時に手が伸びるのは、最近では往年の大指揮者、ハンス・クナッパーツブッシュが残した録音だけになってしまった。

 ブラームスをよく聴く方であればご存じだろうが、第3番の交響曲はほかの3曲に比べるとその性格や特徴がはっきりせず、やや地味な存在である。コンサートのメイン・プログラムに据えるのが意外に難しい曲だと言えば分りやすいだろうか。名曲と言えばもちろん名曲なのだが、聴き手がここぞとばかりに情動を高め、心を震わせるのに格好の名場面、クライマックスといった掴みどころが今ひとつ判然としない、良くも悪くもファン・サービスの要素に乏しい音楽――という印象は、若い頃、名演とされるどの録音を聴いてみても付きまとった。古くはトスカニーニ、メンゲルベルク、ワルター。やや時代を下ってセル、クレンペラー、カラヤン、ベーム、ヨッフム、バルビローリ等々。私がこよなく敬愛するフルトヴェングラー、シューリヒトについても、あえて言えばこの曲が彼らのブラームス演奏では一番、面白くない。

 クナッパーツブッシュの指揮によるこの曲の演奏録音を初めて聴いたのも同じ頃だが、冒頭から「これはいったい、何が始まったのか?」と呆然となり、開いた口がふさがらなかったのを記憶している。これは指揮者の個性とか解釈の違い――というような次元ではなく、まるで曲が別物になってしまっているではないか、クナは自分勝手な演奏をする偏屈な指揮者だと聞いてはいたが(これは当時の私の誤解なのだが)まさかここまでとは!

 驚きのあまり、当時私の無二の音楽の友であった小川榮太郎君の下宿にクナのそのレコードを持ち込み、こいつをちょっと聴いてみてくれと言って音を出した瞬間、彼がすぐに吹き出したのをよく覚えている。「いや君、これは、ワグネリアンのクナが、憎っくきブラームスの曲なんざこうしてぶっ壊してやるよっていう演奏じゃないかな」――そんな意味のことを小川君は言っていて、私もそんなものかと納得したのだが、どうもそれで済ませることのできない何かが残り、その後何度か聴き直すうちに、通常の演奏からすれば全くもって異形・偏奇のきわみのような演奏でありながら、樹齢数千年を経た巨木か苔むした巨石のようなその威容と実在感に、私は否応なく引き込まれていった。やがて、クナが残した《第3》の録音をひとつ残らず蒐集し、それでも飽き足らず、同じ演奏を様々な異なる音源で揃えもした。年月を経て、その間数多くの《第3》の演奏を実演でも録音でも聴いてきたが、結局はクナの演奏でなくてはどうにも満足が行かないという、困った聴き手になってしまい、今に至っている。

 クナ指揮の《第3》に対する世評は割れている。空前絶後の名演と讃える人もいれば、希代の怪演、爆演といった軽薄な持て囃し方をする向きもあり、キワモノ、ゲテモノ、トンデモ演奏と眉をひそめる向きも当然ながらある。

 私はと言えば、そうしたどの意見も今ひとつ、しっくりとは来ない。あえて言うなら、これこそが――いや、これだけが、身も蓋もないほどありのまま《裸形》のブラームスを、抗いようのない強烈さで我々の眼前にどさりと投げ出してくる演奏――別段の根拠や裏付けがあるわけでもない単なる思い込みに過ぎないが、どうにもそう思えてならないのである。ブラームスが内心の奥底深くに押し沈めた、秘められた激情……それはもっとはっきり、鬱屈と憤怒と言ってよいのかもしれないが……そういう、決して表面に噴出することのない巨大なマグマのような代物を、グロテスクなまでにあらわな姿でこの曲から引き出し得たのは、クナッパーツブッシュだけではないか――歳を食い、世に棲むことに倦んだ初老の身となった最近は、ことにそう感じられるのである。

 「グロテスク」?それはそうだろう、ひとが内心の奥深くに押し殺している感情が、清潔で調和の取れたものである筈もない。これは狂的な感情の爆発ではない。むしろ、あまりに多くの狂気、愚劣、理不尽さに直面させられることに黙然と堪えてきた正気な精神からふつふつと噴き出す、やり場のない憤り。それに近い。

 まあ、こういうのは後付けの理屈であって、要はこの曲をほかの大指揮者・名指揮者のどの演奏で聴いても、立派だ、見事だと思いながらそこに何かそらぞらしい感じが付きまとい、結局はクナの演奏でないと、どうも聴いた気がしない――というごく私的な実感を述べているだけなのだが、その“そらぞらしさ”というのは、交響曲第1番やピアノ協奏曲第2番、ヴァイオリン協奏曲といった定番の名曲を大家や名人の演奏で聴いた時に、最近の私が感じるのと同質の心境なのである。「もう、そういうのは沢山だ、十分だ、美も技も芸術も。俺が欲しいのは、嘘も隠しもないほんものの怒り、憤りだ」――そんなところだろうか。


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