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”大時代”の演奏~ギーゼキング、メンゲルベルク、アムステルダム・コンセルトヘボウのラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番

 私はピアノ協奏曲ではブラームスとラフマニノフが大好きで、モーツァルトやベートーヴェンよりも好んできく。チャイコフスキーの1番などは五分もきいていると退屈してきて「もう、よくわかったからさっさと次に進んでくれ」という気分になるのだが、ラフマニノフならいつまででもその音楽の中に身を委ねていたくなる。

 残念なのは、満足の行くレコードが少ないこと。この曲はLP時代にアメリカで流行っていたようでやたらと録音されているが、どうもこうも面白くないものがほとんどである。RCA録音のルービンシュタインはさすがに見事だが、伴奏のライナーが全くラフマニノフへの共感のない、砂を噛むような不愛想な指揮振りで、きいていると段々「あんたにとってそんなにつまらない曲なら、引き受けなければいいじゃないか!」と腹が立ってくる。ホロヴィッツ以降に何人も現れた「抜群のテクニック」を誇る”ホロヴィッツ・チルドレン”的なピアニストのディスクはどれもこれも、およそ情趣も何もない、お寒い限りの演奏が並ぶ。ベスト盤によく挙げられる有名なリヒテル盤は、終始陰鬱で重苦しいばかりで、私にはちっとも良いとは思えない。

 そんな次第で、私がこの曲をききたい時に取り出すのはたいてい、晩年のレオニード・クロイツァーがN響と組んだライブ録音か、このギーゼキングとメンゲルベルクの共演である。どちらも大変古い録音で、雑音も多くききづらいのだが、その音楽の豊かさ、大きさは他では得られないものだから、どうしてもそうなってしまう。

 ギーゼキングというと、戦後にEMIに録音したモーツァルトやドビュッシー、ラヴェルの印象しかないファンが多いせいか、新即物主義の冷徹な演奏――という定型文的なくくりで見られがちだが、この名人はもともと、のちのリヒテルやソロモン、現代で言えばニコライ・ルガンスキーといった、ピアノ弾きとしての圧倒的な身体能力を誇る《怪物》ピアニストの系譜に属する人である。戦後の非ナチ化裁判や身内の不幸やらですっかり元気を失った1950年代の演奏は、この巨人ピアニストの残影のようなもの――とはいえ見事な演奏であることには違いないが――であって、その本領が遺憾なく発揮されているのは、戦前のSP録音やライブの記録である。

 ギーゼキングのライブといえば1942年にフルトヴェングラー、ベルリン・フィルと共演したシューマンのコンチェルトが燃えに燃えた名演としてよく知られており、あれをきいた人なら誰しもが「これがギーゼキングの演奏?」と驚いただろうと思うが、本当はこっちの方がギーゼキングなので、順序が逆なのである。

 有名なベルリン・ライブに比べてこちらはほとんど話題にもならないが、この1940年、アムステルダムでのメンゲルベルクとの共演は、フルトヴェングラーとのシューマン以上に燃えに燃えた、圧倒的な大演奏である。大巨匠メンゲルベルク率いる、当時世界最高の名人オーケストラだったアムステルダム・コンセルトヘボウも、実に気宇壮大で情趣深く、むせかえるほど濃密な演奏をきかせてくれる。

 何せ1940年、昭和15年という古い古い演奏記録であり、アセテート・ディスクへの録音なので盤面ノイズがうるさく、慣れない方にはききづらいだろうが、楽音そのものは非常に鮮明で生きており、80年前とは信じられないほどの優秀録音である。

 何より、その後の時代にはきかれなくなってしまった、本当に大きく、豊かな音楽が、ここにはある。「大時代的な」というのは通常軽蔑的なニュアンスで用いられるが、ここでは最良の意味でそう言いたい。古い録音をきくのは私にとって懐古趣味ではない。大きな人たちが生きていた、大きな時代――こうした記録を通じてその空気に触れると、瞬時にして精神の空間が大きく開けてくる。その爽快感、開放感は、このせせこましく息苦しい「小さな時代」にたまたま置かれた私にとっては、人として生きた心地がする、貴重な瞬間なのである。


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