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黄昏と惜別の「田園」

 フルトヴェングラーとベルリン・フィルによるベートーヴェンの「田園」をきいた。一九五四年五月十五日にスイスのルガーノで行われた演奏会の実況録音。七種類残されている巨匠の「田園」演奏記録のうち、最晩年のものである。先日ある所でこの演奏のことが話題に上ったので、久しぶりにきいてみたくなった。

 手元にいくつかの音源がある中で、以前に入手したまま一度もきかずに放置していたものがあるのに気付いた。海外に住んでいたころ、音楽ブログをやっていた関係でいろんなコレクターの方と交流があり、これもアメリカのさるコレクターから譲ってもらったのだが、いずれちゃんときこうと思いながらそのまま忘れてしまっていた。というのも、この演奏で最初にきいた伊レーベルのディスクの印象があまりよくなく、演奏のよさもよくわからず、私にとってあまりなじみの持てないフルトヴェングラー演奏のひとつになっていたからだろう。

 そういう次第で、その未聴音源をさほどの期待もなく興味半分できき始めたのだが、これはよかった。もちろん六十年以上も前の古いテープが元だから、あちこちに傷みやノイズがある。が、全体的な音質はフルトヴェングラーのライブ録音の中でも最上の部類に入るだろう。これよりも遥かに傷だらけ、雑音だらけの演奏をさんざんきいてきた私には、この程度の傷は全く気にならない。きれいに整音されて余計な「お化粧」(あるいは「ドーピング」か)を施され、もともとの演奏の質が変えられてしまっているような復刻盤をきかされるより、多少の傷があっても演奏のよさがストレートにわかるこういう音源の方が、私にはずっとよい。

 それより何より、これは何という演奏だろう! ベルリン・フィルのアンサンブルは決して万全ではない。はっとするようなミスがところどころで聞かれるし、(聴力の衰えに悩まされていたからだろうが)フルトヴェングラーらしからぬ、楽器間の響きのバランスの崩れや混濁も散見される。が、それをあまり気に病む様子もなく、巨匠はひとつひとつの楽句を慈しみ、しみじみと愛でるように音楽を歩ませていく。その歩みのすべてを黄昏の陽光が柔かく照らしているかのような、音の織り成す風景。ゆったりとしたテンポだが重苦しさはなく、むしろ宙空をゆっくりと歩いているかのような不思議な軽みと浮遊感がある。歌い回しも淡々としてちっとも感傷的ではないのに、聴いていて胸が詰まるような〝もののあはれ〟に満ちている。

 嵐の場面では、衰えた巨匠と万全とはいえないオーケストラの、いったいどこからこんな力が出て来るのかと思うすさまじさで、響きが人智を超えた自然力のように荒ぶり、天地をゆさぶる。音の物理的な力では説明が付かない、それこそ荒ぶる神が音に宿っているかのよう。だが、それは荒れ「狂って」はいない。不思議に清々しいのだ。

 そして、嵐が収まって雲間から陽光が射してくる場面で、フルトヴェングラーは信じられないような〝奇跡〟を起こす。これはもう、きいてもらうほかない。言葉で描写することは不可能だし、そもそも人間が音楽でこんなことができるということ自体、二度と可能だとは思えない。神業といってもまだ足りないくらいだ。

 終楽章では、死を目前にした老人が眠りの中で青春時の夢を見ているかのように、若々しくみずみずしい喜悦が湧き上がる。老年の回想ではない。眠りながら夢の中で青春を生きているのだ。やがてその喜悦が頂点に達し、息を忘れるようなクライマックスを迎える。日暮れの圧倒的な光彩が一日のクライマックスであるのと、ちょうど同じように。

 その日没後の残照と浄福に満たされたコーダをききながら、私にはそれが、「さよなら、みなさん、さようなら」というフルトヴェングラーの声のように聞こえた。これは修辞ではない。ほんとうに音がそのような身振りで去って行くのだ。

 もちろん、これは巨匠の最後の演奏ではない。フルトヴェングラーが実際に亡くなるのはこの演奏の半年後の十一月三十日で、本演奏の後にもいくつもの演奏会と録音を巨匠はこなしている。それでも、私はこの演奏をききながら、フルトヴェングラーが愛する人たちや楽員、聴衆に別れを告げ、手を振りながら歩み去っていく、そういう光景をありありと見た。そんな気がしたのである。

 こんな演奏、とてもじゃないが、何年かに一度しかきけるものではない。こういう種類の感動をもたらすものを何度もきく気は到底しない。一生に一度でもいい。そういう、ほんとうに特別な時間だった。

 音を実際にきいてみたい方は、以下の動画をどうぞ。


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