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布施琳太郎さんの『ラブレターの書き方』という講義を受けている。これが第二回目。

「ラブレター」という一貫したテーマも、取り扱う事例も自分の興味があることで、なにより休日に某所(それなりに都会)へ出かけることが楽しい。

今日感じたこと
・ラブレター、とは?
私はラブレターを純粋なものとして考えすぎているのかもしれない。自分と相手との二者関係は、何者(物)も介入できない神聖なものであるという、思い込みが強すぎる。
講義の内容に触れると、「制作主体X」という存在が重要なものとして語られている。この制作主体Xとは、二者関係の二次創作のようなものであり、行為であり場所である、あるいは解体と再構成を企図するものだと定義されている。また、今回の冒頭では、ラブレターは「私に代わって/私が書く」という二重の主体が語られていた。
「制作主体X」という仲人がなければ、ラブレターはラブレターたり得ないらしい。自動手記人形がいなくても、私が私を解体し再構成することこそにラブレターの価値はあるのではないか。(ところで講義の中では、再構成の主体が曖昧に留め置かれているように感じる。)
私は、「ラブレターを書く私は、(相手に恋する)私を解体し、制作主体Xを触媒として再構成している」というストーリーを勝手に組み上げているのだ。つまり、私はいつまでも「私」には行動主体であることを忘れないで欲しい、という底知れぬ願望があるのだろう、などとも考える。

講義内で例示されている作品たちは、あえて私が「作品」と呼んでいるように、純粋なラブレター(他者が別の他者へ愛を伝えることを目的とする創作物)だとは思えない。「誰かのために描いた絵が美術館に飾られるような」気持ち悪さ、それは、「個人を否定して社会を創作主体とするロジック」という布施さんが嫌悪感を抱いているものとなんなら変わりがないようにすら、思えてしまうのである。

そもそも言語化を極端に苦手とする人間なので、思ったことの0.0003%くらいしか書けていないが、私がこんなことを考えられるくらいには、わかりやすく、興味深い講義ことは確か。普段考えていることを言語化しようとする試みこそ重要なものである。

(ところで、聴覚文化の教授が「授業で取り上げるものはほとんど普段好んで聞くものではないです。自分が好きなものについては冷静に語れないので。」と言っていたことを思い出した。)

次回も楽しみにしています。