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4月18日は山本五十六の撃墜された日〜そのとき、杉田庄一は護衛していた

1943年の4月18日に山本五十六連合艦隊司令長官は、前線視察のため搭乗していた一式陸攻爆撃機もろともアメリカ軍のロッキードP38戦闘機にパプアニューギニアのブーゲンビル島上空で撃墜された。アメリカ軍は暗号解読で視察を知り、極秘作戦として待ち伏せ攻撃をしかけたのだ。山本の戦死は極秘扱いで2ヶ月後に公表され、国葬として執りおこなわれた。

 山本は1884年に長岡で誕生した。長岡中学校のあと海軍兵学校に進学する。卒業からほどなくして日露戦争が始まり、1905年には装甲巡洋艦「日進」に配属された。日本海海戦に参加したが、敵の砲弾によって2本の指を失う重傷をおっている。

 復帰後に海軍大学校を卒業し、ハーバード大学へ留学。アメリカの日本大使館付き武官も経験する。1929年のロンドン軍縮会議にも参加した。早くから海軍航空隊の重要性を説いていた。

 海軍次官になったたとき、対米開戦が叫ばれる中であくまで開戦には反対した。また、日独伊三国同盟に断固反対し暗殺の脅威にさらされる。あまりに身辺が厳しい状況になり、連合艦隊司令長官として政治中枢から離される。皮肉なことに、反対していた日米開戦の指揮をとる立場になったたのだ。

真珠湾攻撃を指揮し、初戦の勝ち戦のあと、ミッドウェイ海戦でつまづく。初戦優位で和平交渉に臨む計画が挫折し、立て直しのために前線視察に出たところでの戦死となった。

後日談である。
そのとき山本五十六を護衛していた6機の戦闘機のパイロットたちは、その責任をとらされるようにその後過酷なまでの出撃を続けた。数ヶ月のうちに四人が戦死し、一人が手首を吹き飛ばされる重傷を負い戦線離脱。一番若かった残りの一人のパイロットが杉田庄一である。

杉田は、その後も1日に何度も出撃を繰り返し、撃墜数を伸ばしていく。ついにエンジンに被弾し、火だるまとなるが生還する。日本に戻り火傷の治療にあたるが、癒着した指を切り離し真っ赤に火傷跡をのこしたまま再び戦線に復帰する。特攻を志願するが、技量を惜しまれ紫電改で結成された343航空隊に選任され、本土防空作戦につく。山本が撃墜されてからおよそ2年後の4月15日、離陸時を襲われ戦死する。個人撃墜70機、協同撃墜40機が公認記録であるが、実際の数はもっと多かったという証言がある。個人技量が優れているにもかかわらず、部下との編隊空戦に努めた。士官でないにもかかわらず死後に全軍布告の感状が出た。そもそも山本五十六の護衛機であったがための運命であったかもしれない。

昨日、杉田庄一の実績を伝承する会の打ち合わせがあった。その席でフィギュアを見せてもらった。所蔵しているのは杉田の甥にあたる杉田欣一氏。製作者は、妙高市在住の大橋広史氏である。

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今年の7月1日に上越市で「杉田庄一の碑」を建立する予定がある。地元では募金活動も行われている。

寄付金(一口1000円) 
上越信用金庫 003 0222125
口座名 杉田庄一の実績を伝承する会

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