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杉田庄一顕彰碑建立のためのクラウドファンディング

私が顧問をしている「杉田庄一の実績を伝承する会」が今年の7月1日に杉田庄一の碑を上越市浦川原区の生誕地に建立する予定です。今は山奥の生家跡にあるお墓の横に板の看板が建てられています。

建立のための支援金を集めるためにクラウドファンディングを行うことになりました。お金を集めることだけでなく、75年以上前このような若者がいたことを多くの方に知ってもらうことも目的になっています。興味関心がある方はぜひ一読し、余裕があれば支援をお願いします。一口1000円からです。

2021年5月24日からスタートします。 
https://readyfor.jp/projects/65419

杉田庄一について
杉田庄一は大正13年7月1日安塚村(現浦川原区)に生まれました。15歳で海軍に入隊し予科連を経て航空搭乗員としてラバウル航空戦などを歴戦。戦争末期、技量優秀として第三四三海軍航空隊員に選ばれ、日本本土防空の任にあたります。公式撃墜数は個人撃墜70機、協同撃墜40機で空戦の神様と呼ばれました。おそらく日本最強でしょう。昭和20年4月15日、鹿児島県鹿屋基地にて出撃直後に被弾戦死します。20歳でした。部下を愛し上官から厚く信頼されたことから戦死後に全軍布告の個人感状が出されました。

杉田が兄と慕った菅野直隊長に関する書籍や杉田直属の列機として常に行動を共にした笠井智一氏の書籍から杉田を知ることができます。菅野の悪口を聞こうものなら上司であろうとも喧嘩腰で怒鳴り込んだとか、部下にたいして手をあげなかったとか逸話が残っています。

杉田は山本五十六司令長官が撃墜されたときの護衛機6機のうちの一人の搭乗員でした。その経緯は「六機の護衛戦闘機」という本にまとめられています。また、ピストルをもって上司に特攻志願をしたとか初陣でB17爆撃機に体当たり撃墜をしたとかエピソードにことかきません。映画「零戦燃ゆ」の主人公のモデルとなったり、本や漫画などで取り上げられたりすることも多いです。昨年も南海放送の終戦75年特別企画のTVドラマやラジオドラマ「紫電改 君がくれた紫のマフラー」でエピソードが放送されました。また、コミック「イブニング」で現在連載中の「紫電改343」(須本壮一)でも取り上げられています。







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