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戦争を知る本#6 「鈴木貫太郎」(立石優)

何度も読み返す本が何冊かある。この本もその一つ。自分自身の年齢からいって、この本がもう生き方のしるべになるようなことはない。ただ、読み直すことによって、この本によって導かれたことがいかに多かったことかと、振り返ることができる。

実は、鈴木寛太郎の伝記はいくつかある。小堀圭一郎の「宰相鈴木貫太郎」や鈴木貫太郎伝記編纂委員会の「鈴木貫太郎伝」、本人からの聞き取りで作成された「鈴木貫太郎自伝」など。しかし、読み易いのは立石版である。「鈴木貫太郎自伝」を底本としているのだろう。エピソードなどはここから起こしている。自伝は、常体と敬体が混じっていて気になるのだ。

さて、鈴木貫太郎であるが、よほど関心がないとこの名前にピンとくる人は少ないだろう。日本敗戦時の総理大臣である。

太平洋戦争で日本が勝利に酔っていたのは昭和16年12月からの半年あまり、昭和17年の6月からは負け続け、しかも負けているのに現実をとらえず、精神論だけで勝利を追い続けた。天皇はその間、戦争にならぬよう、戦争を早く終わらせよう、戦争をすぐに終わらせたいと思いを深くしていくが、政治には口を出さぬのが立憲国家の原点として、文字通り誰も見ていないところで地団駄を踏んでいた。東条内閣がいよいよどうしようもなくなった時、そしてその後の小磯内閣も打つ手がなく崩壊した時、天皇が戦争を終わらせたいと思っていることを知り得た人たちの中から次の首相候補として元侍従長「鈴木貫太郎」の名前が出てきた。鈴木貫太郎ならば、天皇の意を汲んで戦争を終わらせることができる。頑固な鈴木貫太郎は、しかし、頑なに拒む。軍人は政治に口を出してはならぬ。口を出すどころか政治を思うように操る軍人がでたからこのような世の中になってしまったのだと。その鈴木貫太郎も、天皇に「頼む」と言われ、意を結する。そして、戦争を終結させたのだ。そのとき、79歳。歴代首相では最高齢だった。・・・簡単にまとめてしまえば、このようなことになる。ただ、なぜ鈴木貫太郎なのか、それをひもとくには鈴木の生涯と天皇との関係を知らねばならない。

明治17年に鈴木貫太郎は海軍兵学校に入り、海軍将校になる。写真で見る限り、八の字の特徴的な太いまゆげは若い時からだ。この顔で身長180cm以上、体つきもがっしりしていた。明治時代の男性平均身長が155cmくらいだから、かなり目立ったはずだ。

鈴木貫太郎は、ドイツへ留学中に命令を受け、対ロシア戦に向けて急遽日本がイタリアから購入した巡洋艦「日進」「春日」を日本に運ぶ役目を負う。ロシアのスパイやロシア巡洋艦の追跡をかわしながら日本まで二ヶ月半かかって回航する。このときじきじきに天皇から労をねぎらわれた。皇室とのつながりの最初だった。

日露戦争時には、自ら回航した「春日」の副長になり、その後は最も得意とした水雷戦を展開する駆逐艦隊の司令になっている。猛訓練を行なって「鬼貫」と恐れられる。

明治42年に練習艦「宗谷」の艦長になる。この「宗谷」でアメリカまで練習航海に出た時の士官候補生に井上成美がいた。井上はのちに、戦争終結のためのたくらみで大いにかかわることになる。また。「宗谷」の乗り組み士官に山本五十六大尉、古賀峯一大尉がいた。二人とものちに連合艦隊司令長官として太平洋戦争時に重要な役割をもつ。とくに山本と井上は、米内光政海軍大臣のときの海軍次官、軍務局第一課長として3人で三国同盟を阻止しつづけ、海軍三羽ガラスと言われるつながりをもつことになる。

この「宗谷」での候補生への指導で興味深いのは、記録よりも体験を重視したことである。従来、というか現在もであるが、ことの内容よりも報告記録が時として重要視される。大学の実習での評価もそんなことがあったな(過去形)。
ところが貫太郎は、練習航海中の「勤務録は要点のみでよろしい」と通達し、机に向かう時間を少しでも多く体験を積めと命じた。従来、勤務録を長文書くことがよしとされていたため、候補生は長時間を勤務録作成に費やしていたのだ。勤務録から解放された候補生たちは、いつも活気にあふれ練習航海を満喫した。遠洋航海後に成績会議で問題になった。練習航海は2隻で艦隊を組んでいく。「阿蘇」(もう一隻の練習艦)に比べ「宗谷」の候補生は成績がよくないと判定されたのだ。
貫太郎は、「海軍士官の資質は、筆記や文章で判断されるべきではない。規則を順守し、実務を正確かつ忠実に果たし得る者こそ、優れた軍人といえる。宗谷における教育の成果は、十年後に判定していただきたい。」と抗議する。

そして宗谷に帰ると候補生を集めて説明する。「今回の教育の成果は、十年後に判定されることになった。当艦で学んだことが正しかったことを、諸君が身をもって証明してくれるように希望する。一生懸命やれ」
実際に「宗谷」の候補生から井上成美などの名提督が輩出し、将官進級したものがもう一方の練習艦「阿蘇」の候補生の3倍に上った。

明治時代が終わるころ、貫太郎は妻を病気で亡くしてしまう。激務の戦艦「敷島」の艦長だった貫太郎は、予備艦「筑波」の艦長に転属し、妻の看病をしていたのだが3人の子供を残し33歳で亡くなってしまう。その後は、子供たちは妹や父母にまかせて海軍兵学校の教官などをつとめていたが、シーメンス事件で海軍が大騒動になったとき海軍次官に任ぜられる。軍人は政治にかかわらないという貫太郎の姿勢が、海軍に国民の不信感がつのっているときには、かえって政治に踏み込まねばならない立場においこんだのだ。貫太郎は、頑固にこばみ続けるが、「お国のため」という秋山真之の言葉で引き受けることになる。

このとき八代海軍大臣とともに敬愛する山本権兵衛大将の予備役編入をきめる。山本権兵衛は、海軍の創設者ともいえる人物でしかも強く影響を受けていた。山本はシーメンス事件とは直接関わりがないが、首相も経験していた海軍重鎮であり、国民に対して海軍の姿勢を訴えるためには、山本の更迭が必要だったのだ。山本も不平を訴えることもなく処分を受け、政治の舞台から身をひいている。

貫太郎は足立タカという女性と再婚するが、このタカは東京女子師範(現お茶の水女子大)を出た才女で、昭和天皇が4歳の時から10年間、養育係として宮中でつとめていた経験をもっていた。昭和天皇にとっては母親のような存在だったのだ。このタカと昭和天皇の関係が、のちに貫太郎が侍従長に召されることにつながっていく。

次官を免ぜられ、再び練習艦隊の司令官となってアメリカに遠洋航海に出かけた時、サンフランシスコでのスピーチがのちの太平洋戦争での日米の関係を暗示していて貫太郎の見識の高さを感じさせる。大正6年のことである。
「日米戦争のプロバビリティについては、アメリカでも日本でもしばしば耳にする。しかし、これはやってはならない。仮に、日本の艦隊が敗れたとしても、日本人は降伏しない。なお陸上であくまでも戦う。もし日本を占領するとしたら、米国から6000万の兵士を持って行って、日本の6000万と戦争をするほかない。アメリカは6000万人を失って日本一国を取ったとしても、それがカリフォルニア一州ほどのインタレストがあるかどうか。また日本の艦隊が勝ったとしても、アメリカにはアメリカ魂があるから降伏はしないだろう。ロッキー山脈までは占領できるかもしれないが、これを越えてワシントン、ニューヨークまで行けるかというと、日本の国力では不可能だ。
そうすると日米戦争は考えられないことである。兵力の消耗ばかりで日米両国はなんの益もない。ただ第三国を益するのみで、こんな馬鹿げたことはないのである。太平洋は文字通り『太平の海』であり、神が貿易のために造られた海である。この海を軍隊輸送に使うとしたら、両国とも天罰を受けるであろう」

30年後、貫太郎は太平洋戦争を事実上幕を引く役目を負った。どのような思いをもっていたかは、この時のスピーチから推し量ることができそうだ。

連合艦隊司令長官までになった貫太郎であるが、天皇の侍従長に命ぜられる。この時も貫太郎は固く断っていたが、海軍からも政治からも離れた世界に身を投ずることになる。この人の運命は、本人が望んでいないのに周りから押しに押されて要職についていく。最後はお国のためと敢然と職をつとめ、図らずも次の要職にとつながることになる。

昭和の世になり、世界的な不況から暗澹たる政治不審、軍人の暴走が増してくる。
二二六事件のとき、侍従長だった鈴木は青年将校に襲われ数発の弾丸を身体に受けた。いつも天皇のそばにいて相談にのっているので、「侍従長は天皇を懐柔している」と思われたのだ。瀕死の状態を救ったのは、その場にいたタカの「老人なので、とどめだけはしないでくれ」という一言だった。

天皇の怒りは凄まじかった。怒りをあらわにする天皇の姿を初めて見た周囲のものは恐れ入ったという。だが、海で鍛えた貫太郎は生き延びた。天皇からは毎日特製スープが届けられたという。

時はうつり、昭和20年4月太平洋戦争末期、沖縄が包囲され、陸海軍は連日特攻でしか戦う術をうしなっていた。大空襲で焼け野原になった東京で小磯内閣は崩壊する。しかし、大本営は本土決戦をするまでは勝機はあると国民を鼓舞していた。「降伏」という言葉はだれも口にできない精神的な緊迫状態に日本中がおちいっていた。

天皇が憂いていることを知っている重臣たちが次期首相として名前をあげたのが貫太郎だった。これまで政治の世界に身をおいたことはなく、せいぜい次官経験があるだけだ。軍人経験は十分だ。なによりも天皇の信頼が厚い。ということで首相になった。

政治が大きらいな貫太郎は当然ながら固辞している。天皇の「高齢のところ、ご苦労だが、もうひと働きしてくれぬか」という言葉にも、「この儀ばかりは」と言葉を濁す。しかし、天皇も国の最後を任せようという強い決意があった。「鈴木がそのように答えるだろうことは、私も考えていた。お前の気持ちは、よく分かっている。しかし今この危急の時局にあたって、もう他に人はいないのだ」「頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」
天皇が「頼む」と言ったことに同席したものは驚愕したという。貫太郎もさすがに直立して言葉を聞き、「身命を賭して、ご奉公申し上げます」と答えている。

戦争の終結という言葉を腹の底にしまい、慎重に慎重に軍部を統制しつつ終戦までの行程を密かに歩んでいく。8月14日、いよいよ天皇のご聖断をもって戦争を終わらせるまでのいきさつは「日本のいちばん長い日」(半藤一利)に詳しい。映画化されたりTVドラマにされたりしている。このときの鈴木貫太郎と米内光政、阿南惟幾のやりとりは圧巻である。それぞれの気持ちは戦争終結へ向いているが、あくまで戦争終結をうったえる米内、陸軍を代表する阿南のあえて諄々たるふるまい、それを分かっている鈴木貫太郎の腹のすわりは、見事としかいえない。

これまで、遠い昔の物語として読んでいた「鈴木貫太郎」であるが、ロシアのウクライナ侵攻後に読み直してみると、決して遠い昔のことではなく現実感を帯びて感じ取れることに驚いた。ロシアの太平洋側へ侵略意図が起こしたところから、「鈴木貫太郎」のナラティブがはじまっているのだ。


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