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戦争を知る本#5 「最後の海軍大将井上成美」(宮野澄)

ウクライナ侵攻があって、このマガジンを書くのをストップしていた。21世紀に現実の戦争が目の前に突然あらわれたショックで、何も書けなくなった。突然の侵攻から半年、戦争がなぜ起こるのか、戦争をなぜ止められないのか、戦争中に人々はどんな苦悩を背負うのか、ますます関心が深まってきた。人類がこんなに進歩しても、戦争の前には人類の叡知なんて吹っ飛んでいく。今回は、そんな思いのなかで「井上成美」をとりあげた。

井上成美は「三国同盟は戦争につながる」と命をかけて、食い止めようとした海軍軍人だ。米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官の二人を支え、海軍省軍務局第一課長として在任中、なんとしてでも「三国同盟」を結ばせなかった。その思想はリベラリストだと揶揄されるが、本人は「そんなもんじゃない。俺はラジカル・リベラリストだ。」と言い切った。

第一課長という激務をともなう、そして名誉ある職を命ぜられた時、井上は固辞している。妻が重い病だったためだ。井上にとっては、国の大事よりも妻を選んだのだ。しかし、それは軍人にとっては許されないことだった。カミソリのように切れる頭脳を国が要求していた。

陸軍と海軍軍令部の強行派が、世論を背景に、欧州で無敵の電撃戦を展開しているドイツをたよって三国同盟を結んでしまう。米内は大臣を降ろされ、山本は連合艦隊司令長官に出される。井上は、南西方面司令長官となる。この頃、陸海軍の良識派と呼ばれた将官は、そろって政治の中枢から前線の司令官に出されている。山本も陸軍の今村大将もそうだった。戦争を食い止めようとしたのにも関わらず、いざ太平洋戦争になると最前線での司令官として戦わねばならなかったのだ。

井上は、しかし、あまりいくさに向いていなかったようだ。大失敗をしたわけではないが、積極的な姿勢がなかったとして海軍部内から非難をされる。連合艦隊司令長官だった山本は、井上を海軍兵学校長に転出させる。左遷とみる周りのものもいたが、これこそ井上が最も望んでいたポストであり、戦後の日本を考えた上での山本の人事だった。井上もそのことを承知していた。

井上は、軍人でも学者でも似合わない。本質的に教育者だった。海軍兵学校での校長としてまず行ったのは、軍事学を減らし普通学を増やしたことだった。普通学こそしっかり身につけていれば、軍事はその場でも学べる。そして、英語教育を充実させた。昭和18年当時の日本ではありえないことだった。敵性語をつかわないようにしましょうと日本人が皆、目を釣り上げていた時代だ。戦争はいつか終わる。若者はそのために学ばねばならないというのが井上の思想。残念ながらそのとき海軍兵学校を卒業した者の多くは、戦死している。しかし、兵学校時代だけでものびのびと学ばせたいという井上の思いを享受することはできた。井上は、軍人でありながらたった一人で戦争のない世界を切り開こうとしていたのだ。

井上の残した教育に関する思いがある。
「一般に勉強と言えば何人もまず頭に浮かびくるは、本を読む、本を勉強するということなるが、『考えよ』という事に第一に着目する人は少なし。勿論、われわれは学ばねばならず、されど人の本当に知り居るものとは既に自己の熟考を経たるものに限らる。如何に多量の知識ありとするもそれが自己の思慮によって咀嚼したるものに非ざればその価値は反復熟慮せる僅少の知識よりも遥かに少なし」

海軍での最後の仕事は、表舞台には出ず、戦争の幕引きのために働いた事だ。最大の功績は、米内光政を内閣に入れたことだ。戦争の早期終結のためには天皇制を廃止すべしとまで言い出したので、海軍から事実上追い出される事になる。ラジカル・リベラリストなのだ。

戦後の井上は、井上ならそうだろうなと思うような生活をしている。山の中で極貧の中で病気の一人娘と孫を育てる。あまりの極貧の生活に周りの人々が手を差し伸べる。しかし、そんな周りの人々に無償で英語を教え、音楽を教え、食べるものさえないのにティーとクッキーを用意するという生活だ。清貧な生活をする晩年、彼を支える婦人が現れ再婚する。ああ、晩年は幸せでよかったなと思ってしまう。それまでの生き方が、あまりに辛く厳しいものだったから。

大義なき戦争を行っている大国の軍人たちよ、井上のような生き方をした軍人もいるのだよ。戦争を起こすだけが軍人ではない。戦争を起こさないために働くのも軍人なのだ。



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