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中島 一式戦闘機「隼」(1938)

 かつて(今から50年以上前かな)、日本の男の子たちが戦闘機に夢中になった時代があった。人気を二分したのが零戦(三菱重工)と隼(中島飛行機)である。かつて若者がラリーカーに夢中になった時代があった。人気を二分したのが、ランサー(三菱自動車)とインプレッサ(富士重工)だ。

 戦後、三菱重工から三菱自動車が生まれ、中島飛行機から富士重工が生まれたことを考えると、因縁深い系譜を感ずる。

 1937年12月中島飛行機に次期戦闘機候補としてキ43の開発指示が出される。中島飛行機で一式戦闘機(キ43)を設計したチームは、小山悌氏(設計主務者)、太田稔氏(機体班長)、青木邦弘氏(構造設計)、一丸哲雄氏(翼担当)、糸川英夫(空力担当)らである。設計チームに要求された仕様は、当時としてはたいへん厳しものであった。

 零戦が九六式艦戦の発展系であるように一式戦闘機(キ43)も九七式戦闘機の流れを組んでいる。ノモンハン事変で活躍した九七式戦闘機並みの空戦性能を保ったまま速度と航続距離を要求された点も、零戦の開発時の困難さと同じであった。開発チームは、空戦フラップ(蝶型フラップ)と軽量化でこの要求を満たそうと考えたが、1938年の試作機テストでは要求水準を満たすことができなかった。速度が速くなる分、低速度で可能な空戦性能を求めること自体が無理な話であるのだが、用兵側は要求すれば満たすことが当然だという無理強いをする。このような業者に無理な仕様を求めるやりとりは、今でも変わらない気がするが・・・。ともあれ、一式戦闘機の制式採用は塩漬けにされたまま時間がすぎる。

 1940年秋に、爆撃機を護衛して長距離飛行が可能な戦闘機が必要になり、半ばお蔵入りしていたキ43に焦点があてられた。当初は、他にめぼしい戦闘機が見当たらないので仕方なしという雰囲気で量産に入る。しかし、戦略的に必要とされたポジションを得て、活躍の場を広げる。次期戦闘機となる三式戦闘機のエンジン調達が間に合わず、結局、零戦に次ぐ生産数5751機となった。

 零戦と同じような航続距離、速度、空戦性能を持っていたが、翼内に大口径機関砲を搭載できるような構造をもっておらず、武装は貧弱であった。しかし、零戦にはない防弾タンクを持っており、Ⅱ型からは防弾鋼板もそなえるなど防御力はあった。特徴は、軽量の上に短直径のプロペラによって加速性が良かったことである。この利点を活かして一時的に敵を振りきることができた。

 太平洋戦争の初期から最後まで前線で主力戦闘機として活躍したのも零戦と似ているが、2000馬力の連合軍戦闘機が出てきた中期以降は、有利な戦いをすることができなかった。戦争末期は、特攻隊の搭乗機として使われたのも零戦と同様である。

 「隼」という呼称は、太平洋戦争陸軍航空本部が戦意高揚の意図をもって名付けられた。それまでは、キ-○○という制式名で呼ばれていたが、以後の陸軍機には同様の呼称がつけられるようになり、海軍でも同様になった。

> 軍用機図譜

一式戦闘機2型
全長 8.92m
全幅 11.42m
全備重量 2,642kg
発動機 ハ115型 (1,130hp)
最高速度 516km/h (6000m)
航続距離 2,220km
武装 12.7mm機銃×2 30〜250kg爆弾×2





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